1904年2月8日、帝国陸軍の先遣部隊は海軍の護衛を受けつつ、朝鮮の仁川(じんせん)に上陸しますが、この時に海軍の水雷艇とロシアの砲艦「コレーツ」との間で最初の直接戦闘が起きました。そして、翌9日の仁川沖海戦において連合艦隊はロシア旅順艦隊の巡洋艦二隻を撃破し、自沈させました。また、8日夜には旅順港に停泊するロシア東洋艦隊(旅順艦隊)への奇襲攻撃が開始され、ここに日露戦争の幕が切って落とされることになったのです。
日露戦争における日本軍の基本戦略は次のようなものでした。日本陸軍は主作戦を満州に置き、最終的には満州の奉天(ほうてん)辺りで大会戦を行い、ロシア野戦軍を撃破するという戦略を立てており、一方、日本海軍はウラジオストクと旅順のロシア東洋艦隊を撃破して、黄海と日本海の制海権を掌握し、その上でバルチック艦隊との大海戦に臨むという戦略でした。