2月24日の第一次閉塞作戦を皮切りに、その後、第三次まで敢行された「旅順口閉塞作戦」は、結局のところ失敗に終わりました。そこで、連合艦隊は旅順港周辺に艦隊を遊弋(ゆうよく:艦船を海上で待機させること)させ、かつ機雷を敷設(ふせつ)してロシア旅順艦隊を封じ込めることにより、とりあえずは黄海の制海権を確保することはできました。しかし、極東に派遣されたバルチック艦隊の到着までに、いかにして封じ込めた艦隊を撃破することができるのか、ここに日本の命運がかかっていたのです。
旅順艦隊の早期撃滅がいよいよ手詰まりとなったため、もはや残された道は陸軍による旅順要塞攻略しかありませんでした。そこで、日本陸軍は対露戦略上、等閑視(とうかんし)していた旅順攻略作戦に本格的に着手することになり、旅順攻略のために新たに第三軍を編成し、軍司令官に乃木希典(まれすけ)中将(旅順攻略のために支那大陸に上陸した際に、大将に昇進)を任命したのです。