2025年7月20日日曜日

第61回:大東亜戦争の真実(14)

 2月24日の第一次閉塞作戦を皮切りに、その後、第三次まで敢行された「旅順口閉塞作戦」は、結局のところ失敗に終わりました。そこで、連合艦隊は旅順港周辺に艦隊を遊弋(ゆうよく:艦船を海上で待機させること)させ、かつ機雷を敷設(ふせつ)してロシア旅順艦隊を封じ込めることにより、とりあえずは黄海の制海権を確保することはできました。しかし、極東に派遣されたバルチック艦隊の到着までに、いかにして封じ込めた艦隊を撃破することができるのか、ここに日本の命運がかかっていたのです。

 旅順艦隊の早期撃滅がいよいよ手詰まりとなったため、もはや残された道は陸軍による旅順要塞攻略しかありませんでした。そこで、日本陸軍は対露戦略上、等閑視(とうかんし)していた旅順攻略作戦に本格的に着手することになり、旅順攻略のために新たに第三軍を編成し、軍司令官に乃木希典(まれすけ)中将(旅順攻略のために支那大陸に上陸した際に、大将に昇進)を任命したのです。

2025年7月6日日曜日

第60回:大東亜戦争の真実(13)

 1904年2月8日、帝国陸軍の先遣部隊は海軍の護衛を受けつつ、朝鮮の仁川(じんせん)に上陸しますが、この時に海軍の水雷艇とロシアの砲艦「コレーツ」との間で最初の直接戦闘が起きました。そして、翌9日の仁川沖海戦において連合艦隊はロシア旅順艦隊の巡洋艦二隻を撃破し、自沈させました。また、8日夜には旅順港に停泊するロシア東洋艦隊(旅順艦隊)への奇襲攻撃が開始され、ここに日露戦争の幕が切って落とされることになったのです。

 日露戦争における日本軍の基本戦略は次のようなものでした。日本陸軍は主作戦を満州に置き、最終的には満州の奉天(ほうてん)辺りで大会戦を行い、ロシア野戦軍を撃破するという戦略を立てており、一方、日本海軍はウラジオストクと旅順のロシア東洋艦隊を撃破して、黄海と日本海の制海権を掌握し、その上でバルチック艦隊との大海戦に臨むという戦略でした。