2025年6月29日日曜日

第59回:大東亜戦争の真実(12)

 1904年2月10日、日本政府は「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」を交付し、日本はロシア帝国に対して正式に宣戦を布告しました。常備兵力において15倍、国家の歳入では8倍になる軍事強国ロシアに対して、日本政府は国運を賭けた一大決戦に臨むことになるのですが、当時の日本政府ならびに軍部はどのような国家戦略をもってロシアとの開戦という国家の一大事業に取り組んだのでしょうか。

 日本政府には明確な国家的戦略がありました。決して無謀で無計画な戦争をしたのではないのです。「敵を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず」とは、兵法の教えですが、日本政府や陸海軍の首脳は日本の国力を熟知していましたし、ロシアとの国力差も十分に理解していました。そのような状況の中で、いかにすれば日本が大国ロシアに勝利することができるのか、そのための緻密(ちみつ)な戦略を描いていたのです。

 まず、日本の対露基本戦略ですが、日本の国力を熟知していた軍首脳はこの戦争が短期決戦でなければならないと考え、第三国による調停によって早期講和に持ち込むことを前提とする戦争計画を立てていました。そして、調停役の第三国は米国以外にはないとの結論に至っていたのです。ここにおいて、日露開戦に際しての政略と戦略は完全に一致していたのです。

 日本政府が御前会議においてロシアとの国交断絶を決定した2月4日の夜、元老の伊藤博文は貴族院議員であった金子堅太郎を呼び出し、米国のルーズベルト大統領を日露の調停者にするための政府特使として渡米することを要請します。金子は米国のセオドア・ルーズベルト大統領とはハーバード大学の同級生であり、昵懇(じっこん)の間柄だったからです。しかし、その任務に成功の見込みがないとして金子は伊藤の申し出を固辞(こじ)します。すると、伊藤は次のような言葉で金子に国家の危機を訴え、米国行きを承諾してくれるように懇願したのです。

 「今度の戦(いくさ)について、日本が確実に勝つという見込みを立てている者は一人としてありはしない。しかしながら、ことここに至れば国を賭(と)しても戦う一途(いちず)あるのみ。成功不成功などは眼中にない。かく言う伊藤博文のごときは皆、陛下からの賜物である。今日は国運を賭して戦う時であるから、我が生命財産栄位栄爵ことごとく陛下に捧げてご奉公する時期であると思う。儂(わし)は、もし我が陸軍が満州の野で敗れ、我が海軍が対馬海峡でことごとく打ち沈められて、いよいよロシア軍が我が国に迫った時には、伊藤は身を士卒(しそつ:兵士)に伍して鉄砲を担(かつ)いで、山陰道か九州の海岸において、博文の生命のあらん限りロシア軍を防ぎ、敵兵には一歩たりとも日本の土地は踏ませぬという決心をしている。」

 金子堅太郎は伊藤博文の命懸けの決意に深く感動し、身を震わせました。そして、「金子は身を賭して君国(くんこく)のために尽くします」と応じ、2月24日に横浜港から米国に向けて出発しました。日本国の命運を背負い渡米した金子堅太郎はすぐにルーズベルト大統領と会見したのではなく、まずは日本についての広報活動を始めます。なぜなら、ハーバード大学の同級生であるという個人的な関係だけでは、ルーズベルト大統領を調停者にすることはできないと思ったからです。米国は民主主義の国であり、国民世論の支持がなければルーズベルト大統領も自分勝手に動くことができないからです。

 金子は米国留学の経験から、米国民が何よりも正義を重んじる国民であることを知っていました。そして、金子は講演活動を通して、正義を重んじる米国民に日露開戦に踏み切らざるを得なくなった日本の大義をひたすらに説き続けたのです。例えば、米国到着の1ヵ月後にはニューヨークのユニバーシティクラブで、政財界の実力者だけでなく、陸海軍将校や大学総長、さらには新聞記者など、200名を越える錚々(そうそう)たる面々を前にして、日露戦争の原因をはじめ、日本国が直面する諸課題や日本人の決心を切々と訴えかけたのです。そして、演説の最後には、前々日に旅順港外で戦死したロシアのマカロフ海軍大将のことに触れ、歴史に残る敵将の栄誉をたたえて哀悼の意を表し、演説を締めくくったのです。

 翌日の現地新聞は金子の演説内容を掲載し、その中で敵味方の区別なく、死者を顕彰する日本人の姿勢に賛辞を送り、日本人は欧米人が考えることができない高尚な思想を持っていると称賛しているのです。ロシアのカシニー駐米大使が、粗暴で下劣な言葉で日本を攻撃し、時には「黄禍論(こうかろん:黄色人種の台頭が白人文明や白人社会に脅威を与えるという考え方で、日本の国際的進出を警戒し、日本を極東に閉じ込めるべきとする主張)」を持ち出して、日本を非キリスト教文明国として侮蔑(ぶべつ)していたのとは全く対照的でした。金子は仁川沖の海戦で日本海軍がロシア兵の負傷者を救出した事例にも触れ、その一方で在留邦人を虐待しているロシアの非人道的な行為を指摘しつつ、「果たして日本人とロシア人、どちらがキリスト教主義に適(かな)っているか」と問いかけたのです。金子は無礼な言辞を並べることはせず、称えるべきものは敵国であっても称賛を惜しまないなど、武士道の美徳を彷彿(ほうふつ)とさせる演説をもって米国民の本心に語りかけたのです。

 また、母校であるハーバード大学での講演では、何千人という聴衆を前にして、金子は2時間半にわたり堂々たる演説をし、聴衆の心を魅了しました。この演説では、金子自らが演説の時間が長くなったことに気づき、1時間半ほどで中断しようとしたのですが、その時、聴衆は総立ちとなって、思いの丈をすべて話して欲しいと演説の継続を申し出たのです。結局、2時間半の演説となったのですが、金子の言葉に聴衆は惹きつけられ、拍手喝采となったのです。ここでも金子は日露戦争に踏み切った止むにやまれぬ日本の事情を説明し、日露両国の国力差を認めながらも、勝敗を越えて正義のために戦う日本人の決意の一端を切々と述べているのです。その演説内容の一部は次のようなものでした。

 「もしこの戦争で日本が滅びても、日本は少しも構わぬ。日本は正義のため、国を守るために国民皆矛(ほこ)を取って戦ったが、いかんせん暴露(「暴れる露西亜[ロシア]」という意味)のために滅ぼされたということを歴史の一頁に残せば満足する。後世の人が昔日本という国がアジアの東南にあったが、暴露のために滅ぼされたという歴史を知りさえすれば、我々日本人はそれでもう満足だ。」

 演説会を主催したハーバードクラブにより、演説内容は小冊子にされ全米各地に配布されました。そのお陰もあり、日露戦争における「日本の大義」は一般の米国民にも少しずつ伝播されていくようになったのです。その後も金子は全米各地で日本の大義を語り続け、日本人に対する理解を広める活動に尽力しました。そして、渡米から1年が経過した頃、金子はニューヨークのカーネギーホールにおいて単独公開演説を行う機会を与えられることになったのです。

 「日本人の性質と理想」と題する演説の中で、日本人が古来より他国から儒教や仏教を取り入れ、文明国家としての基礎を築き上げたこと、また、日本人の精神性の高さを示すために、日本人の国民教育の指針である教育勅語を紹介するなど、2時間以上にわたって演説しました。そして、この演説の中でも次のような平和観を披歴(ひれき)し、米国世論に日本の立場を訴えたのです。

 「日本は領土的野心のために戦っているのではない。ペリー提督がもたらした門戸開放のために戦っている。将来においては東洋と西洋を融合せしめて一つの文明を造り、世界の人民をしてその恩沢(おんたく)に浴せしめ、全世界の平和を維持して世界皆兄弟という東洋西洋の聖教の本旨を実現させるという大希望を日本人は抱いている。」

 こうして、米国内の世論は急速に親日的なものとなり、この世論の後押しを受けて、ルーズベルト大統領の態度も終始日本に対して好意的になっていくのです。そして、金子はルーズベルト大統領に対しても、日本がなぜロシアと戦争するに至ったのかを詳細に説明しました。さらに、日本が朝鮮半島や満州において正当な権益を持っており、ロシアは一方的に勢力を拡大していることを強調します。そして、日本は専制政治を行うロシア帝国とは異なり、立憲君主制を確立しており、西洋の価値観に近い国であると訴えました。こうした国家体制や価値観の説明は自由主義を重視するルーズベルト大統領にとってはとても共感しやすいものだったのです。

 大義のためには死生観念をも超越する武士道精神に対しても、ルーズベルト大統領はとても感銘を受けたと言われています。そして、日本人の性格と精神性に興味を感じていたルーズベルト大統領は、金子から新渡戸稲造が著した『武士道』を薦められ、日本人の特性を深く学んだと伝えられています。さらに高尚優美なる性格と、誠実剛毅なる精神を涵養(かんよう)すべしとして、5人の子どもたちに『武士道』を読ませており、上下両院の議員や親戚にまでも配布しているのです。

 このようにして全米各地を巡り「日本の大義」を語り続けた金子の尽力により、米国世論だけでなく、ルーズベルト大統領自身が、日露戦争における日本の大義を認めるようになったのです。武士道精神に基づく義の追求や大義のためには死をも厭(いと)わないという日本人の精神性は、正義を尊ぶ米国民にも深い共感を呼ぶこととなり、さらには、明治天皇が日露開戦の際に詠まれた御製がルーズベルト大統領の心に大きな感動を与えることになるのです。

 「身を賭して君国のために尽くします」との決意をもって渡米した金子の尽力なくして、日露戦争における日本の勝利はなかったのかもしれないのです。その意味では、金子堅太郎こそは、日露戦争における陰の功労者であり、真の愛国的英雄だったのではないでしょうか。その後、日米は大東亜戦争において敵対関係となりましたが、その最中の1942年(昭和17年)に金子が90歳で死去すると、ニューヨークタイムズ紙はその死を大きく報じました。金子堅太郎が米国に残した足跡はそれほど大きく、決して忘れ去られることはなかったのです。米国各地で「日本の大義」を説き続けた金子堅太郎の精神を日本国民は決して忘れてはならないのです。