2024年8月24日土曜日

第2回:案山子の神「久延彦(クエビコ)」とは

 『古事記』の中には大国主神が国作りをするという説話があります。大国主神は須佐之男命から授かった神宝で祭祀の力を増し、また、古代の医術にも通じており、さらに数々の試練をも乗り越えることで、国作りを完成させるにふさわしい神となりました。

 しかし、大国主神は自分には国を富ます知恵がまだ足りないと考えていたのです。ある日のこと、大国主神が出雲の御大之岬(みほのみさき)におられると、海の彼方から小さな船に乗って、小さな神がやって来ました。

 大国主神がその小さな神に名前を尋ねるも答えてくれず、周囲の神たちに尋ねても、皆「知りません」と言うばかり。困り果てていると、そこに谷蟆(たにぐく:ヒキガエルの古名)がやって来て、「久延彦ならきっと知っているでしょう」と言うので、大国主神は早速、久延彦を呼んで尋ねてみることにしたのです。すると、久延彦は「その小さな神は神産巣日神(かむむすひのかみ)の御子、少名毘古那神(すくなびこなのかみ)でいらっしゃいます」と答えてくれたのです。

 『古事記』には「久延彦とは“山田のそほど”のことである」と説明されていますが、「そほど」とは「案山子」の古名なので、久延彦は山の田の案山子ということになります。案山子は一本足なので、どこにも歩いていくことはできませんが、一日中、田の中に立って、世の中の出来事をじっと見ていることから、天下のことは何でも知っているとされていました。

 私たちが生きる現代社会にはあまりにも多くの情報が飛び交っています。溢れかえるような情報の波に、時に心をかき乱されてしまうようなこともあるのではないでしょうか。そのような時だからこそ、一日中、雨の日も晴れの日も、直立不動でこの世の中の動きをじっと眺めている「久延彦」のような存在が求められているのかもしれません。

 誰に尋ねても「分からない、知らない」と答えられてしまうようなことでも、久延彦に聞けば答えてくれるかもしれません。天下のことは何でも知っている、まさに真実を私たちに教えてくれる久延彦が世の中で起きていることの真相を教えてくれるかもしれません。混迷する現代社会にあって、一本足の案山子は何ものにも動かされず、じっと立ち止まり、世の中のありとあらゆる出来事を深く深く見つめているのです。歩くことができないからこそ、見える多くの真実があるのではないでしょうか。

 私たちは本当に真実が見えているのでしょうか。歩くことができ、どこにでも行くことができるがために、かえって見えなくなっているものがあるのではないでしょうか。目まぐるしく動き回る日常生活の中で、私たちは大切なものを見失っているのかもしれません。私たちも久延彦のように、もう一度立ち止まって世の中を見てみましょう。そして、何もかも知っているという思い込みを捨てて、謙虚に尋ねてみましょう。久延彦が何よりも大切なことを教えてくれるかもしれませんから。

 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。」 (ヨハネによる福音書 9章 40-41節)

*付記
 明治44年(1911年)に『尋常小学唱歌』第二学年用として掲載された文部省唱歌に『案山子(かかし)』という歌があります。作詞者は『雪やこんこん あられやこんこん』を手がけた国文学者の武笠 三(むかさ さん)です。以下にその歌詞を紹介しますので、興味のある方は調べてみてください。

 山田の中の 一本足の案山子
 天気のよいのに 蓑(みの)笠着けて
 朝から晩まで ただ立ちどおし
 歩けないのか 山田の案山子

 山田の中の 一本足の案山子
 弓矢で威(おど)して 力んで居れど
 山では烏が かあかと笑う
 耳が無いのか 山田の案山子