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2025年8月17日日曜日

第64回:大東亜戦争の真実(16)

 1905年1月1日、旅順要塞司令官であるステッセル中将は第三軍司令官・乃木希典大将に旅順開城を申し出て、翌2日にはロシア軍降伏軍使のレイス参謀長が随員と共に水師営に到着します。そして、第三軍参謀長の伊地知幸助(いぢちこうすけ)少将との間で旅順開城規約が調印され、戦闘が停止されました。乃木大将の希望で「水師営の会見」が行われたのは、それから3日後の1月5日でした。

 この日、ステッセル中将が参謀長のレイス大佐らと共に会見場の水師営の農家に到着したのは、午前10時30分でした。乃木大将は「昨日の敵は今日の友」として、ステッセル中将を迎えます。会見は終始和やかな雰囲気の中で行われ、両将軍は双方の軍の勇戦を讃え合いました。この会見の情景を歌人の佐々木信綱が作詞し、唱歌「水師営の会見」として歌い継がれましたが、その中には「我はたたえつかの防備 かれは称えつわが武勇」という歌詞もあります。

2025年8月15日金曜日

第63回:久延彦談話:大東亜戦争終結80年に寄せて

  大東亜戦争終結80年という節目の時を迎えて、すべての日本人に問いたいこと、そして、伝えたいことがあります。

 命をかけて日本を守ってくれた人たちがいたことを、あなたは知っていますか。私たちが平和に暮らせることを願って命を捧げられた人たちがいたことを、あなたは知っていますか。

 私たち日本人は戦後、歪(ゆが)められた歴史教育によって変容させられてしまいました。そして、国家のために殉じた人たちを敬い、尊い命を捧げられた人たちに感謝するという、極めて当たり前の人としての心を失ってしまったのです。

2025年8月3日日曜日

第62回:大東亜戦争の真実(15)

 第二回総攻撃の失敗により、旭川の第七師団の第三軍への増援が裁可され、来るべき第三回総攻撃に備えることになりましたが、第三軍の幕僚は誰もが第七師団の増援は軍の恥であると口にし、「今度の総攻撃は生還を期せず」との決意を固めていました。そうした中で、中村覚(さとる)少将(第二旅団長)が提案した大規模な奇襲部隊(特別予備隊)の編成が採択されることになります。これが後に「白襷隊(しろたすきたい)」として知られる特別予備隊で、それぞれの連隊から選抜された3106名からなる決死部隊でした。

 最後になるとも覚悟された第三回の総攻撃において、特別予備隊の隊員は夜陰(やいん)でも敵味方が識別できるように目印として白襷をかけて出撃します。攻撃に先立ち、乃木軍司令官は次のような異例の訓示を語られましたが、その時、乃木大将の眼には涙が満ちていました。

2025年7月20日日曜日

第61回:大東亜戦争の真実(14)

 2月24日の第一次閉塞作戦を皮切りに、その後、第三次まで敢行された「旅順口閉塞作戦」は、結局のところ失敗に終わりました。そこで、連合艦隊は旅順港周辺に艦隊を遊弋(ゆうよく:艦船を海上で待機させること)させ、かつ機雷を敷設(ふせつ)してロシア旅順艦隊を封じ込めることにより、とりあえずは黄海の制海権を確保することはできました。しかし、極東に派遣されたバルチック艦隊の到着までに、いかにして封じ込めた艦隊を撃破することができるのか、ここに日本の命運がかかっていたのです。

 旅順艦隊の早期撃滅がいよいよ手詰まりとなったため、もはや残された道は陸軍による旅順要塞攻略しかありませんでした。そこで、日本陸軍は対露戦略上、等閑視(とうかんし)していた旅順攻略作戦に本格的に着手することになり、旅順攻略のために新たに第三軍を編成し、軍司令官に乃木希典(まれすけ)中将(旅順攻略のために支那大陸に上陸した際に、大将に昇進)を任命したのです。

2025年7月6日日曜日

第60回:大東亜戦争の真実(13)

 1904年2月8日、帝国陸軍の先遣部隊は海軍の護衛を受けつつ、朝鮮の仁川(じんせん)に上陸しますが、この時に海軍の水雷艇とロシアの砲艦「コレーツ」との間で最初の直接戦闘が起きました。そして、翌9日の仁川沖海戦において連合艦隊はロシア旅順艦隊の巡洋艦二隻を撃破し、自沈させました。また、8日夜には旅順港に停泊するロシア東洋艦隊(旅順艦隊)への奇襲攻撃が開始され、ここに日露戦争の幕が切って落とされることになったのです。

 日露戦争における日本軍の基本戦略は次のようなものでした。日本陸軍は主作戦を満州に置き、最終的には満州の奉天(ほうてん)辺りで大会戦を行い、ロシア野戦軍を撃破するという戦略を立てており、一方、日本海軍はウラジオストクと旅順のロシア東洋艦隊を撃破して、黄海と日本海の制海権を掌握し、その上でバルチック艦隊との大海戦に臨むという戦略でした。

2025年6月29日日曜日

第59回:大東亜戦争の真実(12)

 1904年2月10日、日本政府は「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」を交付し、日本はロシア帝国に対して正式に宣戦を布告しました。常備兵力において15倍、国家の歳入では8倍になる軍事強国ロシアに対して、日本政府は国運を賭けた一大決戦に臨むことになるのですが、当時の日本政府ならびに軍部はどのような国家戦略をもってロシアとの開戦という国家の一大事業に取り組んだのでしょうか。

 日本政府には明確な国家的戦略がありました。決して無謀で無計画な戦争をしたのではないのです。「敵を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず」とは、兵法の教えですが、日本政府や陸海軍の首脳は日本の国力を熟知していましたし、ロシアとの国力差も十分に理解していました。そのような状況の中で、いかにすれば日本が大国ロシアに勝利することができるのか、そのための緻密(ちみつ)な戦略を描いていたのです。

2025年6月22日日曜日

第58回:「沖縄慰霊の日」に心を寄り添わせるとは

 昭和20年(1945年)6月23日、この日は沖縄戦で第32軍を指揮した牛島満(うしじまみつる)大将が自決し、日本軍による組織的戦闘が終了した日とされています。この日を忘れないため、そして多くの戦没者を悼(いた)むため、6月23日は「沖縄慰霊の日」と定められました。慰霊の日は広島、長崎の「原爆の日」(8月6日、8月9日)や「終戦の日」(8月15日)と共に、上皇陛下が日本人としてどうしても記憶しておかなければならない「4つの日」として、慰霊を尽くされてきた特別な日なのです。

 最後の激戦地となった沖縄県糸満市(いとまんし)摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」が営まれますが、天皇、皇后両陛下をはじめ皇室の方々も、この日には黙祷され、亡くなった方々への哀悼の誠を捧げられます。

2025年6月15日日曜日

第57回:大東亜戦争の真実(11)

 1904年2月6日、日本政府はロシア帝国との国交断絶を通告し、2月8日に帝国海軍は旅順港外においてロシア艦隊への先制攻撃を開始します。そして、2月10日、日本政府は「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅(しょうちょく)」を公布し、ここに日露両国は本格的な交戦状態に入ることになったのです。「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」には、日露開戦に踏み切らざるを得なくなった理由が明確に述べられており、そこには明治天皇の開戦についての悲痛なご心情までもが表白されているのです。詔勅の全文の現代語訳は次のようなものです。

2025年6月8日日曜日

第56回:大東亜戦争の真実(10)

 日本は日清戦争の勝利によって中華思想に基づくアジアの国際秩序である「冊封体制」を崩壊に導くことができました。1895年4月17日、日清両国の間で締結された「日清講和条約」(下関条約)は、朝鮮国の独立を承認し、ここに清国と朝鮮との朝貢・冊封関係には終止符が打たれたのです。つまり、日清戦争の後、清国の対外関係は朝貢・冊封という関係ではなく、条約に基づく関係に一元化されることになったのです。それは、中華思想よりも近代国際法が優越するということでもありました。

 神の摂理的観点から見れば、中華思想という価値観が崩壊させられ、それに基づく国際秩序である冊封体制が終焉したことは、神の理想的世界秩序を構築するための基盤を造成する第一歩となりました。日本は自国の国益として、朝鮮が清国の支配から解放されて、独立国家となるために日清戦争を戦ったのですが、これは神の摂理から見れば、アジア諸国を束縛していた旧態依然とした華夷秩序を崩壊させるための「義戦」であったことを私たちは忘れてはならないのです。

2025年5月18日日曜日

第53回:大東亜戦争の真実(9)

  1876年に締結された日朝修好条規により、国際法的には朝鮮は清国の属国ではなく、自主独立の国家であることが承認されることになりました。しかし、朝鮮国内においては、攘夷・保守派と開国・改革派の対立があり、攘夷・保守派の大院君(たいいんくん)が失脚した後には、開国・改革派の閔妃(びんひ)政権が実権を掌握し、日本と協力して近代国家建設を目指していたのです。ところが、この動きに対して大院君が反乱を起こします。1882年、大院君派は閔妃派を攻撃し、日本公使館を焼き打ちします。しかし、閔妃政権はこの内乱を鎮圧することができず、清国に援助を求めることになりました。そして、反乱鎮圧のために派遣された清国軍が、大院君を捕らえることにより反乱は鎮圧されます。宗主国である清国に反乱鎮圧を要請するという属国としての朝鮮の態度は全く変わっていなかったのです。しかも、その後に閔妃政権はこともあろうに親日派から親清派へと転向してしまうのです。

2025年5月11日日曜日

第51回:大東亜戦争の真実(8)

 「日本の行った侵略戦争すべてです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです」。

 これは、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、日本の戦争犯罪を糾弾するために連合国側の裁判長の口から発せられた言葉です。つまり、東京裁判史観によれば、日本は侵略国家なのであり、その侵略は日清戦争から始まったことになっているのです。もし、私たちが日本は侵略国家であり、その侵略の始まりが日清戦争であったと信じ切っているのなら、私たちは確実に東京裁判史観によって洗脳されているのであり、戦後の歪められた歴史教育の呪縛から未だに解放されていないということになります。

 歴史の真実はそのようなものではありません。日清戦争は日本による侵略戦争ではなかったのです。私たちは日清戦争の真の目的について、はっきりと知らなければなりません。それは、侵略戦争などではなく、朝鮮を清国の支配から解放し、朝鮮を独立国家とするための戦争だったのです。

2025年5月4日日曜日

第50回:大東亜戦争の真実(7)

 欧米列強による植民地支配の嵐がアジア全域において吹き荒れる中、日本だけが植民地支配を免(まぬが)れ、主権国家として独立を維持することができました。世界の陸地面積のほぼ99%が白人に支配されるという悪夢に見舞われた当時の国際情勢の中で、いかにして日本は独立を守り、欧米列強の植民地支配に抗(あらが)うことができたのか。そこには、日本に対する神の摂理があり、日本に対して天が与えようとしていた大使命があったのです。それでは、神の摂理の中で、天が願われた日本の大使命とはどのようなものだったのでしょうか。今回はそのことについてお話ししておきたいと思います。

 19世紀から20世紀にかけて、日本を取り巻く世界情勢を概観してみる時に、そこには世界秩序を構成する大きな潮流があり、さらにその流れを推し進めている思想があることを私たちは知らなければなりません。それでは、それらの思想とはどのようなものであり、さらに、それらの思想を礎とした世界秩序の形成は神の摂理的観点から見た時に、どのような意味を持っていたのでしょうか。

2025年4月29日火曜日

第49回:日本を滅亡から救った昭和天皇の御遺徳

 大東亜戦争の敗戦から80年となる今年は、同時に昭和100年となる年でもあります。そこで、大東亜戦争の敗戦による国家滅亡の危機から日本がいかにして救われ、戦後の奇跡的な復興を成し遂げることができたのか。そこには昭和天皇の御遺徳があったのですが、この歴史の真実を今日の日本人はどれほど分かっているのでしょうか。昭和100年を迎えた今、日本人として絶対に忘れてはならない昭和天皇の御遺徳についてお話ししておきたいと思います。

 それは、敗戦の翌年、昭和21年(1946年)2月から始められた全国御巡幸のことです。大東亜戦争の敗戦は、日本の歴史上初めて経験する国難であり、占領軍の統治はそれまでの日本の伝統的価値観を粉々に打ち砕くものでした。日本全土は焦土と化し、当時世界の最貧国とまで言われるほどに疲弊(ひへい)した国となり、国民は食糧難に苦しみ、衣服も住居もままならない、まさに瀕死の状態に置かれていたのです。

2025年4月20日日曜日

第48回:大東亜戦争の真実(6)

 1858年に締結された日米修好通商条約は、日本へのアヘン輸入を禁止しており、この条文のお陰で日本は清国のようにアヘン漬けにされることはなかったのですが、実は、この他にも日本が見えざる神の御手によって守られていたとしか思えないような歴史の真実がいくつかあるのです。

 まずはイギリスの対日戦略についてお話ししておきたいと思います。イギリスはアヘン戦争の勝利により清国に対する支配権を確立しましたが、実はアヘン戦争については本国において相当の非難がありました。アヘンの密貿易により経済的利潤を追求したことよりも、清国にアヘンを蔓延させることで、その国力を弱体化させ、さらには戦争という手段によって清国での支配権を確立したことについて厳しい目が向けられていたのです。「史上最も恥ずべき戦争」と自国民から非難されたのがアヘン戦争でもあったのです。

2025年4月13日日曜日

第47回:東京大学入学式の式辞と日本の国難

  4月11日、東京大学の入学式が東京都千代田区の日本武道館で開かれました。今年度の新入学生は3122人で、日本の最高学府に学ぶ彼らこそ、日本の将来を担うエリートであるはずです。そして、そのような使命と責任を担うべき新入学生に向けてどんな式辞が語られたのか。東京大学の藤井輝夫総長は、戦後80年を迎える今年、日本がかつてないほどの国難に見舞われている今、どんな言葉を若者たちに語りかけたのでしょうか。

 かつて、東京大学の入学式で語られる式辞は、新入学生にのみ語りかけられたものではありませんでした。日本の最高学府である東京大学の総長が、一体どんな内容を語られるのか、日本の将来を担う学生たちにどんな言葉を贈られるのか、それは日本国民にとっても、とても意味深いものであったのです。なぜなら、日本の最高の知性を象徴する東大総長の言葉こそが、日本の将来を明るく照らす希望の光となるからであり、さらには日本の未来を指し示す道標(みちしるべ)となるからです。

2025年4月6日日曜日

第46回:大東亜戦争の真実(5)

 アヘン戦争の勝利により、イギリスは清国に対して香港島や九龍半島の一部割譲を認めさせ、アヘン貿易を認可させるなどして、ますます清国に対する支配圏を拡大していきました。また、この頃からアジア地域に対する欧米列強の植民地支配は急速に進んでいくことになります。19世紀に入ると、オランダはインドネシアのほぼ全域を支配します。また、イギリスは1866年にビルマ(現ミャンマー)、1895年にはマレーシアを植民地化し、フランスは1863年にカンボジア、1885年にはベトナムを制圧します。そして、1899年にラオスを植民地としてフランス領インドシナ連邦を成立させました。他方、1898年に米西戦争に勝利したアメリカは、スペイン領のフィリピンとグァムを領有し、独立国ハワイを併合します。

 まさに、19世紀は欧米列強による植民地支配がアジア諸国を席捲(せっけん)した時代であり、その中で白人の支配を免れていたのは、日本とタイ、そして朝鮮半島だけだったのです。ここでタイが独立を保つことができたことには理由がありました。それはイギリスとフランスによる植民地争奪戦において、タイが地政学的に緩衝地帯(かんしょうちたい:対立する二国の衝突を回避するための中立地帯)となっていたからでした。そこで、欧米列強は白人の手つかずの地となっている日本と朝鮮半島に対して、その侵略の機会をうかがうことになるのです。

2025年3月30日日曜日

第45回:戦後80年と大東亜戦争の検証

  3月27日、複数の政府関係者により、戦後80年の節目に合わせた「戦後80年談話」の発出が見送られることが明らかになりました。最悪の事態が回避されたという意味では、これは一つの朗報ですが、手放しで喜ぶわけにはいきません。なぜなら、石破首相は首相談話の見送りは決定しましたが、有識者らによる会議体を設置し、その結果を踏まえた見解を記者会見で表明する方向で調整しているからです。どのような見解が発表されるか分かりませんが、石破首相が主導する限り、その内容が極めて自虐的な歴史観に基づいたものとなり、当時の軍部の暴走と政権の批判に焦点が当てられることは間違いないでしょう。石破政権の下で先の大戦の検証が行われ、何らかの見解が発表されることは、百害あって一利なしの愚行であると断言できます。

 「第二次世界大戦の時に、日本の戦争指導者たちは何も知らない国民を戦線に駆り出し、間違った戦争をした。だから、私は靖国神社に参拝しない。あの戦争は間違いだ。多くの国民は被害者だ。・・・日本人が大東亜共栄圏の建設を主張したことは侵略戦争に対する一種の詭弁(きべん)だ。中国に謝罪すべきだ。」

2025年3月16日日曜日

第43回:大東亜戦争の真実(4)

 西欧列強による大航海時代が、アジア諸国にとっては悲惨な大侵略時代そのものであったことはすでに詳述しました。財欲に突き動かされた西欧列強が経済的利潤のみを追求する中で、植民地支配という暴挙に出たのは、ひとえに人間の根底にある邪悪な欲望のゆえだったのです。

 では、人間の根底にある邪悪な欲望とは、具体的にはどのようなものだったのでしょうか。そのことをイギリスがアヘン戦争を引き起こすことになる経緯をたどりながら論じてみたいと思います。

2025年3月2日日曜日

第41回:大東亜戦争の真実(3)

 大航海時代の到来と共に西欧列強による世界征服が始まったことはすでにお話ししてきましたが、それでは、これらの侵略行為はいかにして正当化されたのか、その根拠について詳しく論じてみようと思います。なぜなら、西欧列強による世界征服には法的根拠だけではなく、当時の思想的状況が生み出した植民地主義の正当化理論があったからです。そして、それらは単なる法理や理論を越えて、白人の責務としての崇高な使命となっていたのです。しかし、そのような崇高な使命がどうして邪悪な侵略主義となり、非人間的な植民地支配となり、さらにはおびただしい惨劇と容赦のない殺戮(さつりく)をもたらす罪悪史となってしまったのか、その歴史の真実を私たちは大切な教訓として心に刻まなければならないのです。

 それでは、西欧列強が世界各地を植民地支配していった法的根拠とはどのようなものだったのでしょうか。ポルトガルとスペインによる新航路開拓と新大陸発見は世界にはいまだその所有が定まっていない広大な土地があることを西欧世界に知らせることになりました。そして、これらの土地は「無主地(むしゅち)」と呼ばれ、何人の所有にも属さない土地として、その領有権が争われることになるのです。

2025年2月23日日曜日

第40回:大東亜戦争の真実(2)

 大航海時代は経済的利潤を追求する西欧列強による世界征服の始まりであり、アジア諸国に対しては植民地支配の端緒(たんしょ)となったことを、先回お話ししました。それでは、その後の西欧列強によるアジア侵略はどのように推移したのでしょうか。

 ポルトガルとスペインを中心とする新航路開拓や新大陸発見は、やがて経済的利潤を追求する世界征服へと発展し、さらに奴隷貿易による利潤の拡大はその後もますます盛んになります。スペインは南米大陸を支配し、アステカ帝国とインカ帝国を滅亡させると、原住民を奴隷として本国に移送し、巨万の富を獲得しました。また、ポルトガルはアフリカ大陸西岸に進出していましたが、奴隷貿易が巨大な利益につながることに気づき、アフリカ大陸の黒人奴隷を買い漁(あさ)り、ヨーロッパに輸出して甚大な利益を生み出しました。