2025年5月18日日曜日

第53回:大東亜戦争の真実(9)

  1876年に締結された日朝修好条規により、国際法的には朝鮮は清国の属国ではなく、自主独立の国家であることが承認されることになりました。しかし、朝鮮国内においては、攘夷・保守派と開国・改革派の対立があり、攘夷・保守派の大院君(たいいんくん)が失脚した後には、開国・改革派の閔妃(びんひ)政権が実権を掌握し、日本と協力して近代国家建設を目指していたのです。ところが、この動きに対して大院君が反乱を起こします。1882年、大院君派は閔妃派を攻撃し、日本公使館を焼き打ちします。しかし、閔妃政権はこの内乱を鎮圧することができず、清国に援助を求めることになりました。そして、反乱鎮圧のために派遣された清国軍が、大院君を捕らえることにより反乱は鎮圧されます。宗主国である清国に反乱鎮圧を要請するという属国としての朝鮮の態度は全く変わっていなかったのです。しかも、その後に閔妃政権はこともあろうに親日派から親清派へと転向してしまうのです。

 1884年、閔妃政権の日和見(ひよりみ)的な政治姿勢に危機感を抱いた開化・親日派の独立党は、閔妃政権の不節操な転向と清国の支配が強化されつつあることを憂慮し、日本の援助を受けてクーデターを起こします。ところが、閔妃政権はここでも清国軍に出兵を求め、自国内のクーデターを清国に鎮圧してもらうのです。これが、甲申事変(こうしんじへん)です。甲申事変の後、朝鮮の政治情勢が余りにも不安定であり、閔妃政権が宗主国である清国に頼りすぎて、自主独立の気概がないことを見抜いた日本政府は伊藤博文を清国に派遣し、翌年の1885年に天津条約を締結して清国との関係修復に乗り出します。この条約では、日清両軍が朝鮮半島から撤兵すること、また今後、朝鮮に出兵の際は相互に事前通告をすることなどが約束され、日清両国間の利害衝突は一時、回避されることになりましたが、朝鮮国内における意思統一は全くなされていませんでした。清国を宗主国とする冊封体制の中にとどまり続けるべきなのか、それとも、清国から独立して、開国による近代国家建設を目指すのか、朝鮮国内は揺れていたのです。

 そのような中で、1894年に甲午(こうご)農民戦争(東学党の乱)が起きると、朝鮮政府はまたしても清国軍に出兵を要請します。このまま清国軍が駐留し続けるならば、朝鮮は清国の支配圏に完全に組み込まれてしまうことから、日本政府は在留邦人と公使館の保護を名目として、天津条約に基づいて出兵することになります。その結果、朝鮮に出兵した日清両軍の間で緊張状態が生まれ、朝鮮の内政をめぐっても両国の意見は対立します。特に、朝鮮を清国の属国ではなく、完全な独立国家としたい日本は、清国軍の駐留は朝鮮の自主独立を侵害するものであると主張し、撤退を要求しました。しかし、清国は宗主国であるという立場を強く主張し、日本の要求を拒否します。朝鮮半島をめぐる両国の対立はもはや収拾することができなくなり、ここに日清戦争が勃発することになるのです。

 このような状況の中で、私たちが忘れてはならない一つの歴史的な事実があります。それは、当時の日本政府が朝鮮を独立国家とするだけでなく、実は永世中立国家にしようと、その実現に向けた外交を展開していたということです。日本政府は東京駐在の欧米列国の公使に向けて、スイスやベルギーを模範とする朝鮮の永世中立化構想を打診していました。この構想が実現されるならば、日本、清国、朝鮮はそれぞれの国益を保障し合うことができ、さらには欧米列強による朝鮮侵略や日本と清国の対立を抑止することができるはずでした。また、古くから残存している冊封体制を終わらせ、東アジア世界に新たな国際秩序を構築することができるとも期待されていたのです。

 しかし、朝鮮に対する宗主国の立場を堅持しようとする清国の反対により、朝鮮の永世中立化構想は頓挫(とんざ)してしまいます。ただ、このような歴史的な事実に鑑(かんが)みれば、日本政府には朝鮮を侵略する意図はなく、むしろ清国中心の冊封体制から朝鮮を解放して自主独立国家にすることが日本国の外交戦略であったことが分かるはずです。つまり、日本は前近代的な因習でもある冊封体制を打破し、朝鮮を清国の支配体制から救い出し、自主独立国家とするために日清戦争に踏み切ったというのが、歴史の真実なのです。

 日清戦争の経過は次のようなものでした。1894年7月25日、第一遊撃隊の高速鑑「吉野」が、朝鮮半島西岸で清国海軍の北洋艦隊と交戦します。これが、日清戦争の始まりとなった「豊島沖(ほうとうおき)海戦」です。これは帝国海軍にとって初めてとなる外国艦隊との近代的な海戦であり、日本側の圧倒的な勝利で終わることになりました(清国海軍の損害は巡洋艦など3隻沈没、戦死者1100名だったのに対して、帝国海軍の損害は沈没艦なし、戦死者なし、というものでした)。

 さらに、7月29日未明には、日清戦争最初の主要な陸戦となる「成歓(せいかん)の戦い」が起きます。この戦闘において、帝国陸軍は清国軍を撃破し、敵陣地を制圧します。勇猛果敢な日本兵の姿に恐れを抱いた清国軍は武器や食糧を放棄して敗走し、平壌まで逃亡するという醜態をさらすことになりました。

 そして、いよいよ日清両国の雌雄(しゆう)を決する「黄海海戦」が勃発します。9月17日、黄海の北端、大孤山沖(だいこさんおき)で陸兵上陸を支援した清国北洋艦隊と、索敵中の日本連合艦隊が遭遇し、ここに人類史上初の近代艦隊戦が開始されます。午後0時50分、北洋艦隊の旗艦「定遠」の砲撃により戦端が開かれ、およそ4時間半にわたる海戦において北洋艦隊は大損害を受け、無力化されることになりました。一方で、この海戦に勝利した日本は黄海の制海権を掌握し、日清戦争勝利の基礎を得ることができたのです。

 黄海海戦の勝利の後、帝国陸軍は陸上戦においても清国軍を圧倒し、「鴨緑江(おうりょくこう)作戦」(10月24日~25日)、「旅順口(りょじゅんこう)の戦い」(11月21日)、「威海衛(いかいえい)の戦い」(1895年1月20日~2月12日)で次々に大勝利をおさめます。そして、2月12日、清国北洋艦隊は降伏文書に調印し、ここに日清戦争は日本側の大勝利に終わったのです。

 1895年4月17日、日清両国の全権代表は、日清講和条約(下関条約)を締結します。その内容としては、清国は朝鮮国が独立国であることを承認し、遼東半島、澎湖島(ほうことう)、台湾を日本に割譲し、2億両(約3億円)の賠償金を支払い、さらに日本に対して最恵国待遇を賦与する、というものでした。

 それでは、日清戦争の意義とはどのようなものだったのでしょうか。なぜ、日清両国は戦火を交えなければならなかったのでしょうか。日本にとって戦争の目的は、中華思想に基づく冊封体制を崩壊させることであり、朝鮮を清国の支配圏から救い出し、完全なる独立国家とするためでした。それに対して清国の目的は、あくまでも冊封体制を維持するためであり、朝鮮を冊封体制の中にとどめ置き、宗主国と属国の関係を断固死守することだったのです。つまり、日清戦争は清国を中心とする東アジア世界の伝統的な国際秩序である冊封体制と、日本がもたらそうとした近代国際法に基づく新秩序との戦いでもあったのです。

 1895年4月23日付の英国紙『ザ・タイムス』は、日清戦争の結果について次のように論評しています。「極東には新しい世界が誕生した。我々はそれと共存し、最大限に利用しなければならない」。日清戦争は日本と清国が朝鮮半島の利権を巡って戦ったというような単純な戦争ではなく、東アジア世界の国際秩序に一大変革をもたらすものであり、かつ、当時の世界情勢全般に対しても多大な影響を及ぼすことになる歴史的な戦争だったのです。

 日清戦争における日本の勝利は、清国と朝鮮の間の冊封関係を崩壊に導くことになり、ここに朝鮮は不羈(ふき)の独立国家となることができました。それと同時に、神の摂理的観点から見れば、日清戦争は漢帝国の時代から東アジア世界の国際秩序の基軸となっていた「冊封体制」を最終的に崩壊させるための「義戦」でもあったのです。事実、漢帝国時代から1850年ほど続いた中華思想に基づく冊封体制は、1894年の日清戦争によって完全に崩壊したとされているのです。