2025年1月19日日曜日

第33回:大東亜戦争の真実に辿り着くために

 大東亜戦争終戦80年の節目を迎えた今年、大東亜戦争とはいかなる戦争であったのか、私たち日本人はその真実を知らなければなりません。

 戦後、日本人は大東亜戦争の真相に真摯に向き合い、その真実を探求してきたでしょうか。GHQによる占領支配と極東国際軍事裁判(東京裁判)により、戦後の日本人は大東亜戦争が侵略戦争であり、間違った戦争であったと、単純に思い込んできました。そして、戦後の歴史教育では東京裁判史観に基づく歴史観だけが正しいものとされ、一面的で一方的な戦争論だけがひとり歩きしてきました。日本はアジア諸国を植民地化するための侵略戦争を国策として遂行し、その結果、おびただしい戦争犠牲者を生み出し、アジア諸国に甚大な被害をもたらしたのであり、先の大戦の反省と謝罪によってのみ日本は戦後の国際社会で生存することが許されていると信じられてきたのです。

 しかし、このような戦争観は本当に正しいのでしょうか。これが大東亜戦争の真実なのでしょうか。日本は侵略戦争をした悪なる国家であり、大東亜戦争は自国の国益だけを追求した誤った戦争だったのでしょうか。戦後80年を迎えた今、私たちには大東亜戦争の真実について探求すべき責務があるのです。そして、歴史の真実に対してはどこまでも謙虚であるべきです。これまでの歴史教育に過ちがあるのならば、勇気をもって改めるべきなのです。真実から目を背けて心を閉ざし、過ちを改めることをはばかることほど、国家国民にとっての悲劇はありません。

 大東亜戦争の真実とは何なのか。結論から言えば、私たちが戦後教育で教えられ、また、信じ込んできた大東亜戦争に関する評価や論説は、そのほとんどが全く真実ではないということです。日本人はこれまで戦勝国によりつくられた戦争観を教え込まれ、GHQによる洗脳教育により大東亜戦争の真実を全く知ることができなくなっていたのです。そして、未だに多くの日本人はこの洗脳状態から脱することができないでいるのです。

 そこで、これから大東亜戦争の真実を探求していくために、まず前提としなければならない基本原理について話しておきたいと思います。この基本原理を土台としない限り、決して歴史の真実には辿り着けないと思うからです。

 江戸中期の儒学者である荻生徂徠(おぎゅうそらい・1666-1728)は、歴史を知るための基本原理として次のような言葉を残しています。

 「後世の人は、古文辞(こぶんじ:古代の文章の言葉)を識(し)らず。ゆえに今言(きんげん)をもって古言(こげん)を視(み)る」

 歴史の真実に触れるためには、その時代、その時代の言葉の意味を知らなければならないということです。それが分からなければ、現在の言葉や意味合い(今言)で、昔の言葉や物事(古言)を見てしまうからです。つまり、歴史の真実を知るためには、現在の物差しや価値観で過去の出来事を判断し、その善悪を評価し、さらには過去の事実について審判してはならないということです。

 私たちは安易に現在の価値観で歴史を見ようとします。大東亜戦争が国家国民に対して甚大な惨禍をもたらした悲惨な戦争であったという事実だけをあげつらって、なぜあのような愚かで無謀な戦争をしたのかと、大上段に批判するのです。まさに、今言をもって古言を見ているのです。

 私たちが歴史の真実に出会うためには、その当時の言葉に精通し、その時代の状況や背景について熟知することから始めなければならないのです。私たちの心を千載(せんざい)の昔に飛行させ、その時代の中に心を移し、その時代の真実を蘇らせて見ることこそ、歴史を学ぶための基本原理なのです。

 戦後の歴史教育の大きな過ちは、過去の言葉に心を添わせず、その時代の状況に心を移すことができず、その時代の中にありありと生きることなしに、過去の出来事を現代の価値観で判断し、評価し、さらには審判していることです。これでは、過去に生きた人々の心を知ることができないばかりか、その時代に起きた出来事について正しく認識することはできません。

 大東亜戦争の真実を知るためには、あの戦争を現代の価値観で見てはならないのです。その当時の言葉の真意を尋ね求め、その時代の人々の信念や思いに心を寄り添わせ、その時代の人々がどんな気持ちで生きていたのか、そのありのままの姿に謙虚な心をもって向き合わなければならないのです。

 歴史の真実は、それを愛する人のところに近づいてきます。真実を探し求める人がいるならば、真実を知りたいと切望する人がいるならば、そのような人の心にこそ、歴史の中に埋もれた真実は蘇ってでも訪ねて来てくれるのです。

 歴史の結末だけを知り、高みの見物をするかのように過去の歴史を見下ろし、それらの出来事を現代の価値観でしか見ることができない偏狭(へんきょう)で傲慢不遜(ごうまんふそん)な人のところへ真実が訪ねて来ることは決してありません。なぜなら、そのような人は過去の歴史に心を閉ざしているからであり、謙虚に歴史を学ぶという心を持ち合わせていないからです。

 戦後80年を迎えた今、私たちは歴史の真実を探求する歩みを始めなければなりません。今言をもって古言を視るのではなく、大東亜戦争の時代を生きた先人たちの心からの訴えに耳を傾け、その時代に生きた人々の語る言葉の真意を知ることができるように、謙虚な心で歴史を学ばなければならないのです。忘れ去られ、埋もれていた歴史の真実が過去から現代に蘇り、私たち一人一人の心の扉を叩いているのではないでしょうか。心の扉を大きく開き、謙虚な心で歴史の真実を心に迎えましょう。そうすることで、私たちは必ずや大東亜戦争の真実に辿り着くことができるでしょう。