2月24日の第一次閉塞作戦を皮切りに、その後、第三次まで敢行された「旅順口閉塞作戦」は、結局のところ失敗に終わりました。そこで、連合艦隊は旅順港周辺に艦隊を遊弋(ゆうよく:艦船を海上で待機させること)させ、かつ機雷を敷設(ふせつ)してロシア旅順艦隊を封じ込めることにより、とりあえずは黄海の制海権を確保することはできました。しかし、極東に派遣されたバルチック艦隊の到着までに、いかにして封じ込めた艦隊を撃破することができるのか、ここに日本の命運がかかっていたのです。
旅順艦隊の早期撃滅がいよいよ手詰まりとなったため、もはや残された道は陸軍による旅順要塞攻略しかありませんでした。そこで、日本陸軍は対露戦略上、等閑視(とうかんし)していた旅順攻略作戦に本格的に着手することになり、旅順攻略のために新たに第三軍を編成し、軍司令官に乃木希典(まれすけ)中将(旅順攻略のために支那大陸に上陸した際に、大将に昇進)を任命したのです。
開戦当初からの日本軍の最大の目的は旅順艦隊をいかにして撃破するかということでした。そして、第三軍に与えられた使命はロシアの旅順要塞を攻略し、陸上からの砲撃によって旅順港に停泊する敵艦隊を撃滅することだったのです。かつての日清戦争で、乃木少将率いる歩兵第一旅団は一日で清国軍の旅順要塞を攻略しましたが、三国干渉の後に旅順を租借したロシアは、近代的な大規模要塞の建設に着手し、難攻不落といわれるほどの要塞を完成させていたのです。しかし、日本軍は日清戦争での経験から旅順陥落は容易であると甘く見ており、そのため、旅順要塞攻略を前にして、攻城戦の経験の乏しい第三軍の攻撃準備は極めてお粗末なものとなっていたのです。
第三軍による第一回目の総攻撃は8月19日から開始されましたが、この総攻撃は砲兵の支援を受けた歩兵突撃という強襲策でした。この強襲策は甚大な犠牲者を出したことから、今日では批判されることもありますが、当時においては要塞攻略の戦法として、歩兵による強襲は兵学の常識だったのです。しかし、総攻撃の結果は凄惨(せいさん)なもので、8月24日までの戦闘において日本軍は戦死者5017名、負傷者10843名という大損害を被(こうむ)ります。第一回総攻撃は失敗に終わったのです。
乃木大将は攻撃方法について再考し、工兵の意見を取り入れた正攻法へと戦術を転換します。これは敵要塞前面まで塹壕(ざんごう)を掘り進めて歩兵による進撃路を確保しつつ、場合によっては敵防御施設まで坑道を掘り、爆破しようという作戦でした。時間は要するものの損害を極力抑えることのできる戦術だったのです。さらに、内地から28センチ榴弾砲(りゅうだんほう)が投入され、正面要塞への砲撃が行われると、それに呼応するかたちで歩兵部隊による突撃も開始されました。しかし、日本軍の戦況は芳(かんば)しくなく、10月31日午後3時過ぎ、乃木大将は総攻撃の中止を命じました。この第二回総攻撃における日本軍の戦死者は1092名、負傷者は2782名でした。
第二回総攻撃の失敗は大本営にとっても、日本国民にとっても大変な衝撃で、第三軍に従軍する兵士の出身地である東京近県や北関東、また、北陸や四国の村や町では連日のように戦死者の葬儀が行われていました。また、バルチック艦隊の来航に危機感を抱いていた海軍でも失望の声が広がり、要塞攻略よりも旅順艦隊殲滅(せんめつ)を最優先する作戦に変更すべきとの意見が出るようになりました。大本営(だいほんえい:戦時または事変の際に設置される統帥に関する最高機関であり、日本陸海軍の最高司令官である天皇の本営という意味)や政府首脳の中には乃木大将の罷免(ひめん)を求める動きさえ出ており、東京・赤坂の乃木邸には憤激した国民による投石が相次ぎました。
このような状況の中で、明治天皇ご臨席の御前会議において乃木大将を更迭(こうてつ)すべきという意見が上奏されます。その時、明治天皇は決然としてその更迭意見に反対されました。
「乃木を代えてはならぬ。後を誰にやれというのか。もし途中で代えたら、乃木は生きていないだろう。」
明治天皇の深い御心を知った乃木大将は「一将軍にすぎない自分を、これほどまでに思って下さるとは」と、感激し自らを奮い立たせたといいます。開戦以来、乃木大将はほとんど睡眠を取ることもなく、厳しい冬も暖房は使わず、食事も兵士と同じものを食べて前線の兵士の苦痛を一緒に味わおうとされました。甚大な犠牲者を出した旅順要塞攻略において、戦場には何千という負傷兵が横たわっていたのです。また、乃木大将のもとには胸を痛めるばかりの第一線からの報告が次々に届けられました。それでも、総攻撃を続け、兵士に突撃命令を出さなければならなかった乃木大将の胸中を誰が知っていたでしょうか。しかし、明治天皇だけは乃木大将の悲嘆に暮れる心情を知っておられたのです。
また、旅順攻略戦において負傷した兵と乃木大将との忘れることのできない美しい物語も伝えられています。広い野原には戦場で負傷した何千という兵が運ばれてきました。見渡す限りの負傷者の中を歩かれる乃木大将の眼は涙に光りました。そして、副官に「氷を持って来てくれ」と言い伝えます。乃木大将は負傷者のそばに行き、運ばれてきた氷を割って、口に氷を入れてやりました。「よくやってくれた。一日も早くよくなっておくれ」と、一人ひとりの手を握り、慰労の言葉をかけられます。負傷者たちは涙を流しながら乃木大将を見つめ、「早くよくなって大将のもとで死にたい」と思わない者はいませんでした。
乃木大将から氷の一片をもらった一人の兵士は、その時のことを回想して、次のように書き残しています。
「私は泣けて泣けて仕方なかった。傷ついたわが身が恨めしかった。今日でも乃木大将が語りかけた下さった言葉を忘れることができない。広い野原の中に立たれた乃木大将の衰えた淋しい姿、それは今も忘れることができない。」
乃木大将の指揮のもと第三軍の将兵は旅順要塞攻略のために粉骨砕身、捨て身の攻撃精神で敢闘(かんとう)しました。しかし、二度にわたる総攻撃において、前進堡塁(ほうるい)の攻撃には成功したものの、要塞の主要防御線への攻撃にはまたしても失敗することになりました。そこで、大本営は旭川の第七師団の第三軍への増援を決定し、来るべき第三回総攻撃に備えることとなったのです。