2025年9月14日日曜日

第68回:大東亜戦争の真実(19)

 日本海海戦における作戦計画は、海軍首脳部が大枠を決め、この大枠をもとにして各艦隊の配置や敵艦隊を全滅させるための迎撃作戦計画は、秋山真之(さねゆき)作戦参謀が策定しました。これが、いわゆる「七段構えの戦法」で、その概略は次のようなものでした。

第一段(夜間襲撃):主力決戦前夜、駆逐艦及び水雷艇隊により敵主力を奇襲雷撃
第二段(主力決戦):早朝より艦隊の全力をもって敵主力部隊への砲雷撃による決戦
第三段(夜間襲撃):日没後に再び駆逐艦・水雷艇隊により敵艦隊を奇襲雷撃
第四段(追撃戦):敵艦隊の残存艦隊を追撃し、砲雷撃攻撃
第五段(夜間襲撃):日没後に駆逐艦・水雷艇隊による三度目の奇襲雷撃
第六段(追撃戦):敵艦隊の残存艦隊をウラジオストク付近まで追撃
第七段(機雷戦):第六段までに残った敵艦隊を事前に敷設したウラジオストク港口の機雷
         区域に追い込んで撃滅

 ところで、大本営に向けた電文の中の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という一文により、大本営は第一段作戦が実行できないことを理解しました。実際に、韓国の鎮海湾を出港した連合艦隊は旗艦「三笠」を先頭に一路南西に針路を取り、外洋に出たのですが、海上の波は高く、水雷艇隊はまるで木の葉のように波にもまれており、東郷司令長官は水雷艇の航行は困難と判断します。そして、8時50分頃に水雷艇を三浦湾に退避させ、10時8分には奇襲隊の解隊命令を出すことになりました。ここに、第一段作戦は中止されることになったのです。

 旗艦「三笠」の連合艦隊司令部がバルチック艦隊を艦首方向真正面に視認したのは、午後1時39分でした。そして、午後1時55分、「三笠」のマストに信号旗であるZ旗が掲揚されました。Z旗は海戦史において特別な意味をもつ旗として世界に認知されていますが、「Z」がアルファベットの最終文字であることから「この戦いに敗れたら後はない」という決戦の士気高揚を目的として用いられました。Z旗が初めて使用されたのは、1805年のトラファルガー海戦でした。英国艦隊のネルソン提督が「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」との信号文と共にZ旗を旗艦のマストに掲揚し、これにより士気を高めて敵艦隊を撃破することができたのです。東郷司令長官はネルソン提督に倣(なら)い、Z旗に次のような意味を持たせて、旗艦「三笠」に掲揚したのです。

 「皇国(こうこく)ノ興廃(こうはい)此ノ一戦ニアリ各員一層奮励(ふんれい)努力セヨ」

 東郷平八郎連合艦隊司令長官はこの言葉にどのような思いを込められていたのでしょうか。それは、この海戦に敗れれば万世一系の日本国は滅びる、という悲痛な思いでした。まさに、万世一系の天皇が知らす国である大日本帝国がこれからも興隆するのか、それとも衰亡していくのか、皇国の興廃はこれからの一大海戦にかかっているのであり、この戦いのために各員に忠君愛国の精神をもって奮励敢闘することを促したのです。

 この時、南西に向かっている連合艦隊と北東に向かうバルチック艦隊との距離はおよそ1万2000mで、両艦隊は刻一刻と近づきます。そのまま進み敵艦隊とすれ違いざまに交戦する「反航戦」(お互いの艦船がすれ違うように進んでいる状態で戦闘を行うこと)とするのか、あるいは直ちに大転針して敵艦隊と並行して戦う「同航戦」(お互いの艦船が同じ方向に進んでいる状態で戦闘を行うこと)とするのか、東郷司令長官は首からかけた愛用の双眼鏡を目に押し当てたまま、一言も発せず沈黙していました。ここで、反航戦とした場合は、攻撃時間は短くなり、敵艦隊全滅という本来の目的を果たすことができず、敵艦隊を取り逃がす恐れがありました。

 敵艦隊との距離が8000mとなった午後2時5分、東郷司令長官はさっと右手を上げ、その手をゆっくり左に向けて下ろしました。傍らにいた加藤友三郎参謀長の「艦長、取舵一杯(とりかじいっぱい)」の声が響き渡ります。取舵一杯とは艦首を左に急転させることです。これが、いわゆる「東郷ターン」と呼ばれる敵前での艦隊大回頭でした。旗艦「三笠」の急転回に続いて、2番艦「敷島」、3番艦「富士」、4番艦「朝日」なども順次転回しましたが、軍艦は速度を落として転回している時が最も標的になりやすく、敵艦隊からの射程距離内で急転回することは当時の海戦の常識では考えられないことでした。まさに、世界中の海軍関係者を驚嘆させた敵前大回頭、これが「東郷ターン」でした。

 「東郷ターン」は戦艦1艦当たりおよそ2分を費やしての150度もの敵前大回頭となります。連合艦隊が正面での急転回するのを見たロジェストヴェンスキー中将は、好機到来と確信し、午後2時8分、一斉砲撃を命じました。距離7000mで旗艦「スワロフ」が第一弾を発し、その砲撃は先頭の「三笠」に集中しました。「三笠」は敵艦隊の集中砲撃に晒(さら)され、被弾48発の内40発が右舷(うげん)に命中しましたが、訓練不十分であった敵艦の射撃手の砲撃はどれも効果的なものとはなりませんでした。東郷司令長官は敵前回頭の際には、旗艦である「三笠」に砲撃が集中することを想定していましたが、最新鋭で最も装甲の厚い「三笠」に被弾を集中させることで、他艦に被害が及ばないことを意図していました。そして、万一「三笠」が大破し、自らが戦死したとしても丁字(ていじ)の状態を完成させることを最優先したのです。

 午後2時10分、敵前大回頭を終えた「三笠」の各砲が旗艦「スワロフ」に向けて一斉に火を噴(ふ)きます。敵艦隊の進路を圧迫しつつ、その距離6000mの位置から「三笠」の12インチ砲が放たれましたが、その砲撃は実に正確なものでした。敵艦隊と並走する同航戦に持ち込んだ連合艦隊は、旗艦「スワロフ」と戦艦「オスラービア」に集中砲火を浴びせ、開戦後わずか10分で「スワロフ」と「オスラービア」は猛火と黒煙に包まれ、陣列から脱落していきました。秋山真之作戦参謀が、海戦の後に「決戦は、30分間で片が付いた」と語っているように、午後2時20分にはバルチック艦隊との砲撃戦は最高潮となりますが、敵艦隊への砲撃命中率は連合艦隊が圧倒していました。バルチック艦隊主力艦は多数の被弾により戦闘力を急速に失い、敵艦隊はいかに戦場から離脱するかに必死で、もはや連合艦隊に立ち向かう余裕などありませんでした。そして、午後3時過ぎに戦艦「オスラービア」がついに沈没し、旗艦「スワロフ」も大爆発を起こして左舷に15度傾き、舵機(だき)を破壊されて行動の自由を失ってしまいます。さらに、「スワロフ」の艦上では司令塔に命中した砲弾の破片でロジェストヴェンスキー中将が重傷を負い、意識不明になっていたのです。

 やがて、戦場には夜が訪れますが、すでにバルチック艦隊の新式戦艦は旗艦「スワロフ」と戦艦「オスラービア」の他にも「アレクサンドル三世」と「ボロジノ」が沈没し、残っているのは「アリヨール」だけとなりました。午後7時18分、東郷司令長官は各戦隊に砲撃中止を命じ、多くの戦艦と巡洋艦には、翌朝の戦闘に備えて鬱陵島(うつりょうとう)沖に移動するよう電令しました。そして、主力艦隊に代わって日没後の戦闘に向かったのは駆逐艦と水雷艇隊でした。21隻の駆逐艦と40隻もの水雷艇は、バルチック艦隊の周囲に接近し、完全に暗くなるのを待って北と東と南の三方から次々に夜襲を開始し、次々に魚雷を打ち込みます。バルチック艦隊の残存艦艇も夜襲部隊を迎撃すべく、一斉に砲門を開きますが、夜の海を走り回る小型艦艇にはなかなか命中しませんでした。この夜襲で戦艦「ナワリン」が沈没し、戦艦「シソイ・ウェリキー」と装甲巡洋艦「ナヒモフ」、巡洋艦「ウラジミール・モノマフ」が大破し漂流することとなりました。そして、他の残存艦には、もはや戦闘する気力はなく、夜の海を北に向けて一目散に逃走し始めたのです。午前0時前、夜襲部隊は攻撃を中止し、翌朝の集結地点である鬱陵島に向かい戦場を後にします。この時の戦闘における日本側の損害は水雷艇3隻のみでした。

 ロジェストヴェンスキー中将から指揮権を引き継いだ第三太平洋艦隊(ネボガトフ支隊)のネボガトフ司令官は、残存艦をまとめて深夜の日本海を北上しますが、この時、ネボガトフ司令官が乗る戦艦「ニコライ一世」に続航していたのは、戦艦「アリヨール」、装甲海防艦「アブラクシン」と「セニャーウィン」、そして二等巡洋艦「イズムルード」のみとなりました。

 一夜明けた5月28日、東郷司令長官率いる第1、第2戦隊が鬱陵島近海に到達した午前4時50分、第5戦隊から「敵艦隊発見」の無電が入ります。敵艦隊の陣容を知らされた東郷司令長官は、これを敵残存艦の主力であると判断し、全速力で情報地点に急行します。9時30分頃、第1、第2戦隊は敵影を発見し、バルチック艦隊の残存艦5隻の包囲態勢を作り、10時30分頃、旗艦「三笠」が距離8000mをもって砲撃を開始しました。他の艦も射撃を開始し、 ロシア側では戦艦「アリヨール」が応戦しましたが、 その直後の10時34分にネボガトフ司令官座乗の「ニコライ一世」が突然、軍艦旗と将旗を降ろし、「われ、降伏す」の万国信号機を掲げました。続いて「アリヨール」、「アブラクシン」、「セニャーウィン」も軍艦旗を下ろし、降伏旗を掲げ、ここに事実上、日本海海戦は連合艦隊の大勝をもって終了したのです。バルチック艦隊を殲滅(せんめつ)するという連合艦隊の目的はほぼ達成されたのです。重傷のロジェストヴェンスキー中将が移乗していた駆逐艦「ベドウイ」は、ウラジオストクへ向かっていましたが、午後4時過ぎに日本の駆逐艦に砲撃され、機関停止を行い降伏します。ロジェストヴェンスキー中将は捕虜となり、佐世保の海軍病院に収容されることになりました。

 バルチック艦隊はこの海戦により戦力のほぼすべてを失いました。一昼夜の海戦で38隻のうち、16隻が撃沈され、5隻が撃破・自沈、6隻が拿捕(だほ)されました。最終的に、ウラジオストクに到着できたのは、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻のみだったのです。また、兵員の損害としては戦死者4830名、捕虜6106名で、捕虜の中にはロジェストヴェンスキー中将とネボガトフ少将も含まれていました。その一方で、連合艦隊の損失は水雷艇3隻沈没のみで、戦死者117名、戦傷者583名と軽微なものでした。日本海海戦の一部始終を観戦していたアルゼンチン海軍のガルシア大佐は、その著書の中で次のように述べています。

 「ロシア側は、日本海海戦(対馬海戦)において、過去に世界でも例のない大敗北を強いられたのである。」

 秋山真之作戦参謀が策定した「七段構えの戦法」についてですが、実際には第一段作戦は高い波浪(はろう)条件により行われず、第二・第三・第四段作戦によってバルチック艦隊をほぼ殲滅したことになります。わずか二日間の戦闘で、世界第二位の大艦隊が壊滅的な被害を受けたことは、世界の海戦史上において類例を見ないもので、現在に至るまで史上稀(まれ)に見る一方的勝利とされています。

 5月27日は帝国海軍が日本海海戦において歴史的な大勝利を収めた日として「海軍記念日」に制定されましたが、奇しくも、この日は第二回旅順港口閉塞作戦で戦死した広瀬武夫中佐の誕生日でもありました。この日は日本海軍が世界の海軍史にその名を刻んだ栄光の日であり、海軍の功績をたたえ、日本国民が記念すべき日となりました。日本海海戦の勝利は、日本が世界の強国としての地位を確立する契機となるだけでなく、欧米列強の植民地支配に対抗する唯一の独立国としての日本が、その自立と尊厳を国際社会に認めさせる一大慶事でもあったのです。

 海戦後の5月30日、東郷平八郎司令長官は連合艦隊の主力艦と捕獲したロシアの軍艦を従えて、佐世保港に入港します。そして、6月3日に東郷司令長官は平服で佐世保の海軍病院に入院しているバルチック艦隊司令長官のロジェストヴェンスキー中将を見舞い、大航海の苦難をねぎらうと共に、敗戦した敵将の心中を察した優しい言葉をかけ、励ましました。その言葉を聞いたロジェストヴェンスキー中将は目に涙を浮かべ、次のように述べたと伝えられています。

 「閣下に敗れたことが私の最大のなぐさめです。私は敗れたことを悔やんではおりません。」