2025年8月3日日曜日

第62回:大東亜戦争の真実(15)

 第二回総攻撃の失敗により、旭川の第七師団の第三軍への増援が裁可され、来るべき第三回総攻撃に備えることになりましたが、第三軍の幕僚は誰もが第七師団の増援は軍の恥であると口にし、「今度の総攻撃は生還を期せず」との決意を固めていました。そうした中で、中村覚(さとる)少将(第二旅団長)が提案した大規模な奇襲部隊(特別予備隊)の編成が採択されることになります。これが後に「白襷隊(しろたすきたい)」として知られる特別予備隊で、それぞれの連隊から選抜された3106名からなる決死部隊でした。

 最後になるとも覚悟された第三回の総攻撃において、特別予備隊の隊員は夜陰(やいん)でも敵味方が識別できるように目印として白襷をかけて出撃します。攻撃に先立ち、乃木軍司令官は次のような異例の訓示を語られましたが、その時、乃木大将の眼には涙が満ちていました。

 「余はまさに死地に就かんとする当隊に対し、嘱望の切実なるものあるを隠し得ない。諸子が一死君国に殉ずべきは実に今日に在り。希(ねがわ)くば努力せよ。」

 11月26日、午後8時50分に白襷隊は一斉に攻撃を開始し、攻撃目標の松樹山に辿り着きますが、敵の地雷原に阻まれ、さらに探照灯(たんしょうとう)に照らされて十字砲火を浴びます。前線部隊はほとんど全滅し、後続部隊は奮戦するものの死傷者が相次ぎ、午後10時30分頃には指揮官であった中村少将が敵弾を受けて負傷します。そして、翌27日の午前2時頃まで激戦を繰り広げるも、結局、敵陣を突破することはできず、退却することになりました。この時の白襷隊の決死攻撃は失敗に帰すことになりましたが、ロシア軍でも膨大な犠牲者を出すことになり、白襷隊の勇敢さはロシア側でも感嘆の賛辞をもって伝えられました。

 11月27日、乃木大将は当初の攻撃計画が頓挫したことを受けて、攻撃目標の変更を指示します。つまり、攻撃目標を大本営が以前から要望していた二百三高地に変更し、第一師団に砲撃後の突入を命じました。しかし、二百三高地の防御は堅固で、第一師団は死傷者続出により戦闘力を失い、二百三高地の攻略は困難になりました。そこで、乃木大将は増援された第七師団の投入を決意し、二百三高地攻撃の指揮権は第一師団から第七師団に継承されました。30日には二百三高地の東北部山頂を一時占領することに成功しましたが、翌日の午前2時にはロシア軍の猛反撃により奪還されてしまいます。

 この時の戦闘において、二百三高地攻略に当たっていた後備第一旅団の副官である乃木保典(やすすけ)少尉(乃木希典大将の次男)がロシア軍の銃弾を受けて戦死します。その6ヵ月前には、第二軍の歩兵第1連隊第1小隊長として出征していた乃木勝典(かつすけ)少尉(乃木大将の長男)が、南山の戦いにおいて戦死しています。ロシア軍が放った銃弾を腹部に受け、向こう側が見えるほどに風穴が開き、野戦病院での手術・治療の甲斐もなく、出血多量で死亡したのですが、亡くなるまでのおよそ30時間、一度も痛いとか苦しいとか言わず、死にまさる激痛に堪えながら息を引き取ったのです。「武士は命を捨てても弱音を吐くな」という乃木家の教えが宿っていたからでした。

 長男・勝典少尉の戦死の知らせを受けた時、乃木大将は「勝典もようやく御上(おかみ)の御用を果たすことができた。武門の誉れである。これほど喜ばしいことはない」と話しています。乃木大将は勝典少尉の戦死を静子夫人に電報で伝えましたが、静子夫人は涙一つ流さず、祖先の霊前へ報告されました。ところが、その後、戦地から勝典少尉の遺品が送られてくると、血と泥が染みついた遺服(いふく)を抱きしめながら、「よく死んでくれた。お役に立った」と涙声で嗚咽(おえつ)されたのです。

 実は、乃木大将の妻である静子夫人については次のような話が伝えられています。旅順要塞攻略戦が思うように進展せず、第二回総攻撃までもが失敗する状況の中で、軍内外はもとより日本国民の間からも乃木大将に対する厳しい非難の声が湧き上がりました。そこで、静子夫人は密かに伊勢神宮にお参りされ、頭から水をかぶって斎戒沐浴(さいかいもくよく)し、神前にひざまずきながら、「どうぞ、神威で旅順を陥落させて下さいませ」との深い祈りを捧げられたのです。すると、「汝の願いはかなえるが、最愛の二子(にし)は取り上げるぞ」との声がしたのです。その声を聞いた静子夫人は、「二子のみでなく私ども夫婦の命も差し上げます。どうぞ旅順だけは取らせて下さいませ」と哀願したといいます。

 長男・勝典少尉の戦死だけでなく、次男・保典少尉の戦死の報に触れた乃木大将は、「よく戦死してくれた。これで世間に申し訳が立つ」と語っていたそうです。長男だけでなく、次男までも相次いで亡くした乃木大将に日本国民は深く同情し、乃木大将の胸中を思ってか、戦後には「一人息子と泣いてはすまぬ二人亡くした人もある」という俗謡が流行(はや)りもしました。乃木大将は出征前に二人の息子の死をも覚悟して、静子夫人にこう言い残していました。

 「父子三人の出征なのだから、必ず三つの棺が乃木家から出るものと思え。誰が先に死んでも棺桶が三つ揃うまでは葬式は出さないように。」

 二人の息子を失くした乃木大将でしたが、軍司令官としての大命に殉じようと決死の覚悟で二百三高地陥落のため軍の態勢を整えます。しかし、第三軍の二百三高地攻略について、明らかに心配している人物がいたのです。満州軍総司令官の大山巌(おおやまいわお)元帥です。そのことを感じ取った児玉源太郎総参謀長は、第三軍の攻撃指揮を執るため旅順に赴くことになりますが、この時、児玉総参謀長は前線に立つ以上、生還は期しがたいとの覚悟で遺言状をしたためて出撃しました。12月1日、旅順に到着した児玉総参謀長の指導の下、第三軍は攻撃部隊を再編制し、大砲の陣地転換などを行いました。

 12月4日早朝より児玉総参謀長の作戦指導の下、総攻撃が再開されます。そして、翌5日の10時過ぎには第七師団と第一師団の一部で構成された攻撃隊が西南堡塁を制圧します。また、同日、態勢を整えた攻撃部隊により東北堡塁への攻撃が開始され、22時にはロシア軍は撤退し、二百三高地を完全に占領することができました。ここに旅順要塞攻略の悲願は達成され、二百三高地に設けられた観測所を利用した日本軍の砲撃により、旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊は次々に被弾し、ほぼ全滅させられたのです。

 二百三高地の陥落と、旅順艦隊の壊滅を知らされたロシア軍将兵は急速に士気を失い、さらに、12月15日には常に第一線で戦い、ロシア兵の信頼を集めていたコンドラチェンコ少将が戦死すると、ロシア軍は一気に士気を喪失し、総崩れとなっていきました。第三軍は二百三高地陥落の後も、旅順を守る三大堡塁である東鶏冠山、二龍山、松樹山を次々に攻略しました。そして、1905年1月1日、第三軍は最重要拠点である虎頭山や望台への攻撃を開始し、午後には望台を占領します。ロシア極東軍司令官ステッセル中将は、もはやこれまでと抗戦を断念し、同日16時半に日本軍へ降伏を申し入れました。ここに、4ヶ月以上に及ぶ苛烈な戦闘を繰り広げた旅順要塞攻略戦は日本軍の勝利に終わったのです。