2025年8月17日日曜日

第64回:大東亜戦争の真実(16)

 1905年1月1日、旅順要塞司令官であるステッセル中将は第三軍司令官・乃木希典大将に旅順開城を申し出て、翌2日にはロシア軍降伏軍使のレイス参謀長が随員と共に水師営に到着します。そして、第三軍参謀長の伊地知幸助(いぢちこうすけ)少将との間で旅順開城規約が調印され、戦闘が停止されました。乃木大将の希望で「水師営の会見」が行われたのは、それから3日後の1月5日でした。

 この日、ステッセル中将が参謀長のレイス大佐らと共に会見場の水師営の農家に到着したのは、午前10時30分でした。乃木大将は「昨日の敵は今日の友」として、ステッセル中将を迎えます。会見は終始和やかな雰囲気の中で行われ、両将軍は双方の軍の勇戦を讃え合いました。この会見の情景を歌人の佐々木信綱が作詞し、唱歌「水師営の会見」として歌い継がれましたが、その中には「我はたたえつかの防備 かれは称えつわが武勇」という歌詞もあります。

 この会見でステッセル中将は乃木大将の愛息二人が戦死したことに哀悼の意を表すると、乃木大将は「国のために身を捧げたもので、光栄で誇るところだ」と答えました。また、この世紀の会見の記念写真を撮りたいという米国や英国などの外国記者団に対して、乃木大将は「会見が終わり友人として同列に並んだところなら良い」と条件を付け、ステッセル中将の名誉を重んじ、帯剣した姿で同列に並んだところを一枚だけ撮影させました。それは、すでに明治天皇から「武人の名誉を保(たも)たむべし」との言葉が伝えられていたためでした。

 当時、世界の講和会見においては、降伏した敵将には決して帯剣は許さず、丸腰にさせることが当然であり、それはある意味での見せしめでもありました。乃木大将が敵将の体面に配慮して帯剣を許し、かつ同列に並んだところを写真撮影させるなど、極めて寛大な取り計らいをしたことは、世界の戦史において類例のないものでした。世界中に配信されたこの記念写真を見た人々は、勝者と敗者が対等に肩を並べている姿に深い感銘を受けたのです。

 戦後になり、1908年(明治41年)に行われたロシアの軍法会議でステッセル中将は「まだ余力があるのに、降伏するとは何事か」と訴追(そつい)され、死刑を宣告されます。ところが、そのことを知った乃木大将は、、銃殺刑を宣告されたステッセル中将の命を救うために、ロシア皇帝ニコライ二世に宛てて嘆願書を書き送ったのです。また、ステッセル中将を弁護するために、彼が最後まで敢闘(かんとう)したという資料を送付し、各国の諸新聞に投書して世界の世論を喚起することに尽力しました。これが幸いして、ステッセル中将は死刑を免れ、十年の刑に減刑されたのです。

 その後、大赦(たいしゃ)によって出獄することができたステッセル中将は口癖のように、「乃木大将のような立派な将軍と戦い、敗れたことに一片の悔いもない」と、周囲の人々に語っていたそうです。しかし、ステッセル中将の晩年は生活にも恵まれず、苦難が絶えませんでしたが、そのことを伝え聞いた乃木大将はステッセル中将に対して、いくらかの金銭を送り続けていたのです。

 やがて、乃木大将が殉死すると、差出人不明の香典が送られてきました。そこには「モスコーの僧侶より」とだけ書かれていました。これを聞いた人々はその香典がステッセル中将からのものであると確信します。現在、乃木家の墓は青山霊園にありますが、そこには「モスコーの一僧侶より」贈られた香典でつくられた手水鉢(てみずはち)が置かれています。

 ところで、当時の旅順要塞はロシアが10年の歳月と巨費を投じて構築した難攻不落の要塞であり、クロパトキン大将は「どんな大敵が攻めてきても、3年は持ちこたえる」と豪語していました。しかし、乃木希典大将率いる第三軍は半年の歳月を要することなく陥落させたのです。この事実には、むしろ世界が驚愕したことを私たち日本人は記憶しておかなければなりません。乃木大将の指揮による旅順攻略戦に関して、世界は「乃木大将とその将兵は奇跡を起こした」と評価しているのが、歴史の真実であり、戦後の風潮として、乃木大将が「無能」であり、「愚将」であったという評価がはびこったのは、不当に捏造されたものだったのです。ここには日露戦争の世界的評価を貶(おとし)め、とりわけても国民的英雄であった乃木大将を無能呼ばわりすることで、戦後の日本国民を洗脳する明確な意図があったことを忘れてはならないのです。

 乃木大将を愚将とする戦後歴史観の本質は何かと言えば、乃木大将の軍人精神を支えていた「武士道」の徳目を消滅させることにあります。戦前の軍人たちを支えていた精神的支柱は明らかに武士道精神でした。武士道精神こそが、軍人の道徳意識や行動規範の基本になっていたのです。武士道には、「義・勇・仁・礼・誠・名誉・忠義」の七つの徳目がありますが、そのうち人に対する思いやりを説いているのが「仁」です。弱い者、劣った者、負けた者に対する思いやりや憐みの心を持つことが「仁」であり、その精神は武士にとって最も大切なものとされていました。乃木大将が日本軍に敗れた敵将ステッセル中将に対して示した思いやりの心は、まさに「仁」をもって接した軍人としての本分であったのです。

 乃木大将が「日露戦争の英雄」として、長野師範学校で講演を求められた時の逸話があります。乃木大将は演壇になかなか登ろうとせず、その場に立ったままでした。そして、「私は諸君の兄弟を多く殺した乃木であります」と一言だけ述べると、ただ絶句し滂沱(ぼうだ)の涙を流したのです。そのような乃木大将の姿に接した教師や生徒の中に泣かない者はいませんでした。日露戦争で凱旋(がいせん)した将軍の中には誇らしげに戦功を語る者もいましたが、乃木大将だけは自らの命令によって多数の将兵を死なせてしまった責任を一身に負い、強烈な自責の念を終生変わることなく持ち続けたのです。

 乃木大将が凱旋する際には、新聞は乃木大将の一挙手一投足を詳細に報じようとしました。また、日本国民の中にも他の諸将とは全く異なる大歓迎の高揚感が漂っていました。ところが、そのことを察知していた乃木大将は、「戦死して骨となって帰国したい、日本へは帰りたくない」と語り、また、「蓑(みの)でも笠でもかぶって帰りたい」などとその心境を吐露していました。そして、凱旋した後に各方面で催された歓迎会への招待はすべて辞退したのです。

 英国陸軍中将として日露戦争第一軍付属の観戦武官であったイアン・ハミルトン中将は日露戦争の回想録において、乃木大将について次のような記述を残しています。

 「威(い)あって猛(たけ)からずという風貌の裡(うら)に、高潔な人格と瞑想的な英雄精神が滲み出ている。あくまで謙譲で勝利を驕(おご)っているところは微塵もない。古い伝統の裡(うら)に育った人でありながら、絶えず時代と共に歩むことを忘れない。私はこの老将軍が軍事に関する、世界の新刊書を多量に読破しておらるることを知って驚嘆した。もし私が日本人であったら、乃木将軍を神として仰ぐであろう。」

 私たち日本人が忘れてはならない歴史の真実、そして、永遠に記憶しておかなければならない日本人としての生き方、日本人にとって何よりも大切なものを乃木希典大将は、その人生において、その人格と言動において、私たちのために遺されたのではないでしょうか。

 1907年(明治40年)、明治天皇は御信任の深い乃木大将を学習院院長に任ぜられ、皇孫(こうそん)の教育を託されました。そして、翌年、裕仁親王(ひろひとしんのう:後の昭和天皇)が学習院初等科に入学されます。ある日、乃木大将は生徒たちを集めて、「日本はどこにあると思うか」と質問しました。生徒たちは、「アジアにある」、「東洋にある」などと様々な答えをしますが、乃木大将はまるで慈父のような優しいまなざしで生徒たちを見つめながら、次のように答えました。

 「そうじゃないんだ。みんなもよく覚えていてほしい。日本はみんなの心にあるんだ。これだけは忘れてくれるな。」

 これが乃木大将の学習院時代の最後の講義となりました。現代を生きる私たち日本人一人ひとりに対しても、「日本はどこにあると思うか」との問いかけがされているのではないでしょうか。私たちが自信と誇りをもって、「日本は私たちの心にあります」と答えることができたら、どんなに素晴らしいことでしょう。