奉天会戦に勝利してから10日余りを経た3月23日、大山巌満州軍総司令官は「今後の作戦の要は政略と戦略の一致にあり」との意見を具申し、政府に早期の講和を促しました。そこで、日本政府は米国のルーズベルト大統領に講和の斡旋(あっせん)を依頼しますが、ロシア皇帝ニコライ二世は早期講和を断固拒否します。なぜなら、ロシアはバルチック艦隊を極東に派遣しており、制海権を奪回することで戦争に勝利できるとの期待をかけていたからでした。
1904年4月7日、ニコライ二世はバルト海の最新鋭艦艇により編成された太平洋第二艦隊、いわゆるバルチック艦隊を制海権奪回のために極東に派遣することを決定し、 ロジェストウェンスキー中将を司令官に任命します。 そして、 周到な準備の後、半年後の10月15日、大小40隻を超える艦隊はバルト海のリバウ港を出港し、極東のウラジオストクを目指しておよそ3万㎞に及ぶ大航海に出発しました。
バルチック艦隊は途中で二隊に分かれます。喫水(きっすい:船体の水中に没している部分の深さ)の浅い小型艦隊で編成されたフェルケルザム支隊(司令官フェルケルザム少将)は本隊と分かれてスエズ運河を経由し、一方、大型艦艇で編成された本隊はアフリカ大陸南端の喜望峰を回り、二隊はマダガスカル島で合流することになっていました。マダガスカル島に到着して間もなく、旅順艦隊の壊滅と旅順要塞陥落の知らせがもたらされます。ロシア海軍は旅順艦隊全滅の報に接し、新造戦艦「ニコライ一世」を旗艦とする太平洋第三艦隊を編成し、増援部隊として派遣することにします。そして、マダガスカル島に滞留するバルチック艦隊には増援艦隊の到着まで待機するよう命じました。
しかし、太平洋第三艦隊(ネボガトフ支隊:司令官ネボガトフ少将)の派遣はバルチック艦隊のロジェストウェンスキー中将にとってはありがた迷惑とも言える増援でした。なぜなら、旗艦こそ新造戦艦ではあったものの、他の艦艇は旧式艦揃いで戦力としてはそれほど価値がなく、むしろ足手まといになりかねないものだったからです。ネボガトフ支隊の到着を待っている間に、奉天会戦でロシア陸軍が敗北したとの知らせが届けられます。さらに、日英同盟を背景とした英国からの外交的圧力もあり、バルチック艦隊はマダガスカル島に滞留することが困難になっていきました。
バルチック艦隊はネボガトフ支隊との会合地点を仏領インドシナのカムラン湾に変更させます。そして、1905年3月17日、バルチック艦隊はカムラン湾に向けて出発し、4月14日に到着、燃料の石炭や食糧を補給搭載して、ネボガトフ支隊の到着を待つことになりました。しかし、ここでも日英の外交圧力は止まず、艦隊は国際法の制限をかわすため、一日おきに滞留地から出たり入ったりを繰り返さなければならなくなったのです。この間の将兵の疲労は相当なもので、長期航海と日英による外交的圧力により兵員の士気は下がるばかりでした。
ところで、日本と同盟関係にある英国はバルチック艦隊の寄港地に対して石炭供給を拒むよう指示を出していました。そのため、艦隊の燃料補給はもっぱらドイツの石炭会社からの洋上補給となりました。ドイツの石炭は英国産に比べると質が悪いため、燃料不足を恐れて積載限度を超えた石炭を搭載している艦艇もあり、さらに、石炭の超過積載により喫水線が上がると艦艇の速度は思うようには出ません。良質の英国産石炭を積んだ連合艦隊との海戦において不利になることは必至でした。その上、英国の妨害によりバルチック艦隊が利用できる補給港は限られており、艦艇の整備や補修、兵員の訓練なども十分に行うことができなかったのです。ただ、このような状況の中で、7か月にも及ぶ長期の航海を成功させ、あのような大艦隊を率いて日本海にまで辿り着いたこと自体は一つの「奇跡」だったのかもしれません。
さて、ロジェストウェンスキー中将は仏領インドシナに逗留(とうりゅう)している間、間接的に日本に対して圧力をかけることを提案しますが、本国はそれを拒否、また、ネボガトフ支隊を待たずにウラジオストクへ急航したいとの打電に対しても、本国には許可されず、ネボガトフ支隊の到着を待つようにと命じられます。5月9日、ネボガトフ支隊がようやくカムラン湾に到着し、こうしてやっと陣容が整えられたバルチック艦隊は、5月14日に極東ウラジオストクに向けて最後の航海に出発することになりました。母国リバウ軍港を出港してから日本海に到達するまでに7か月余もかかったのは、マダガスカル島に2か月余、仏印のカムラン湾に1か月もの間逗留していたからです。
当初、日本の大本営は、バルチック艦隊は遅くとも1905年の1月上旬頃には台湾海峡付近に到達すると予測していました。そして、その予測に基づき、1904年の11月上旬から連合艦隊では全艦隊に対して数隻ずつ交代で帰港させ、艦隊の修理に当たるよう指示していました。さらに、敵艦隊がいまだマダガスカル島に滞留しているという情報を得ると、1905年1月21日、東郷平八郎連合艦隊司令長官は全艦艇に修理完成の後はただちに指定地に集合し、敵艦隊迎撃のための訓練に入るよう訓令しました。
バルチック艦隊が仏領インドシナのカムラン湾を出港するのが5月中旬になったことは、日本海軍にとってはありがたい誤算であり、この時間的猶予を得た連合艦隊はこの期間に猛訓練を行い、術科能力の向上に努めることができたのです。日々の訓練は一段と激しさを増し、艦隊の対敵運動、襲撃、夜戦、艦砲射撃、魚雷発射訓練などが連日連夜行われました。平時訓練における年間弾薬消費量をわずか10日間で使い切ってしまうほどの猛訓練を行ったお陰で、射撃部隊の命中率は日ごとに上達し、黄海海戦時の約三倍にまで向上していました。東郷司令長官も毎朝5時には起床し、弁当持参で射撃艦に乗り込み、視察するほどでした。こうして、連合艦隊はバルチック艦隊を迎撃するための万全の準備を整え、敵艦隊を待ち構えていたのです。
ところで、5月14日にカムラン湾を出港したバルチック艦隊は、19日にフィリピンのバシー海峡を通過したという情報を最後に、その消息が分からなくなっていました。さらに、連合艦隊にとって最も悩ましいことは、ウラジオストクに向かうバルチック艦隊がどの海峡を通過するのかが判然としないことでした。選択肢は三つでした。一つは、その公算が最も高いと予想された対馬海峡を通過して、日本海を突っ切る航路であり、残りの二つは、太平洋側を迂回して、それぞれ津軽海峡か宗谷海峡を抜けていく航路でした。
三つの選択肢に対して、戦力を分散して迎撃することは困難であり、連合艦隊としては、どこか1か所に戦力を集中させ、敵艦隊を撃滅するしか方法はありませんでした。そこで、連合艦隊はまず天候が悪く、最も遠回りとなる宗谷海峡通過の可能性は低いと判断します。そして、津軽海峡に対しては、連携機雷(れんけいきらい:日本海軍の秘密兵器で、2つの浮遊機雷を約100mの連繋索(れんけいさく)でつなぎ、敵艦の艦首が連繋索に引っかかると機雷が引き寄せられ触雷する)を多数敷設(ふせつ)することで敵艦隊を足止めする手はずを整えます。こうして東郷平八郎司令長官は、バルチック艦隊は対馬海峡を通過すると予測して主力艦隊を配置し、周辺海域に厳重な警戒網を敷いたのです。ただ、連合艦隊は5月26日正午までに敵艦隊が対馬海峡に現れなければ、大島(北海道の渡島[おしま])への移動を開始する旨を大本営には打電していました。
5月26日午前0時5分、東シナ海でバルチック艦隊の燃料である石炭を積み終えた石炭輸送船6隻が、25日夕方に上海に入港したとの情報が大本営を経由して、連合艦隊に伝えられます。石炭輸送船が要らないということは、バルチック艦隊が最短距離でウラジオストクに向かうことを意味していました。つまり、敵艦隊は連合艦隊が予測した通り、対馬海峡を通過する航路を選択していたのです。もし、石炭輸送船の上海入港が1日遅れて26日になっていたならば、連合艦隊は北海道に向けて移動を開始していたかもしれず、もしそうなっていたならば、連合艦隊とバルチック艦隊による艦隊決戦の行方はどうなっていたか分からないのです。
5月27日未明、哨戒(しょうかい)中の仮装巡洋艦「信濃丸」がバルチック艦隊の病院船「アリヨール」の灯火を発見します。そして、午前4時50分、「敵ノ第二艦隊見ユ」との電信はは、対馬の浅茅(あさじ)湾に滞留していた第三艦隊を経て午前5時5分に鎮海(ちんかい)湾の連合艦隊司令部に届けられました。東郷平八郎司令長官は、バルチック艦隊発見の暗号電を受け取ると、全艦隊にただちに出撃するよう命令を発出します。続いて、東郷司令長官は大本営に向けて、のちに有名になる次のような電文を打電します。
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直チニ出勤、之ヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
この電文の中の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という一文は、秋山真之(あきやまさねゆき)作戦参謀が書き足した部分と伝えられていますが、この一文にはどのような意味があったのでしょうか。司馬遼太郎は「天気がよく視界良好で敵を取り逃がす心配がなく、波が高く砲撃の狙いをつけにくい状況は、練度の高い我が方に有利だ」という意味が込められていたと解説していますが、実際には、「機雷を敷設する水雷艇が波高により出撃できない、波が高くて水雷をまけない」という意味であり、これは予定していた奇襲作戦に狂いが生じたことを伝えたものだったのです。連合艦隊は当初の作戦を実施することができない状況の中で、バルチック艦隊との決戦に臨むことになります。かくして、総勢44隻からなる連合艦隊の主力は午前6時34分、旗艦「三笠」を先鋒に、隊列を組んで対馬海峡の東水道へと向けて出撃しました。