2025年8月31日日曜日

第65回:大東亜戦争の真実(17)

 1905年2月21日から3月10日にかけて、日露戦争における最終的大会戦となる奉天会戦が行われました。日露両軍合わせておよそ60万人に及ぶ将兵が、18日間にわたり満州の荒野で激闘を繰り広げたのであり、これは世界史上でも稀に見る大規模会戦でした。日本陸軍は19個師団の総兵力24万9800名、対するロシア陸軍は30個師団半で36万7200名、戦力比は2対3とロシア軍が圧倒していました。

 2月20日、大山巌(おおやまいわお)満州軍総司令官は各軍司令官と第三師団長を集め、奉天会戦の意義について、次のように訓示しました。

 「近く目前に横たわる会戦においては、我はほとんど日本帝国軍の全力を挙げ、敵は満州に用い得べき最大の兵力と思わるる軍隊を引っさげ、もって勝敗を賭(と)せんとす。これ重要中の重要なる会戦にして、この会戦に勝を制したるものは、戦後の主人となるべく、実に日露戦争の関ヶ原というも不可なからん。故に吾人(ごじん)はこの会戦の結果をして全戦役(せんえき)の決勝となすごとく努めざるべからず。」

 満州軍は奉天で増援を待つロシア軍に対して、日本軍が有利である内に早期講話を結ぶため、賭けともいえる総力戦を挑むことになりましたが、これが奉天会戦でした。2月21日、日本軍最右翼の鴨緑江軍(おうりょくこうぐん・川村景明[かわむらかげあき]大将)は陽動作戦として進撃を開始し、24日には清河城(せいかじょう)を陥落させます。そして、3月1日より奉天に対する包囲作戦を開始しました。鴨緑江軍と連動して、最左翼の第三軍も進撃を開始し、ロシア軍の両翼を圧迫します。ここでロシア軍が両翼の防備に兵力を分散させ、正面が手薄になった間隙(かんげき)をついて、大規模攻撃を仕掛けるというのが日本軍の作戦でした。

 ロシア軍総司令官のクロパトキン大将は旅順を攻略した乃木大将指揮の第三軍を高く評価しており、その戦闘能力を何よりも警戒していました。当初、ロシア軍は日本軍最右翼の鴨緑江軍を第三軍と勘違いし、これに対して大量の予備軍を派遣します。ところが、第三軍がロシア軍右翼を包囲するように進撃してきたことを知り、慌てて応援に送った予備軍を呼び戻し、第三軍の正面へ転進させたのです。陽動作戦によりロシア軍は混乱に陥り、日本軍の初期作戦は見事に成功します。そして、いよいよ奉天正面に展開している第一軍(黒木為楨[くろきためもと]大将)、第二軍(奥保鞏[おくやすたか]大将)、第四軍(野津道貫[のづみちつら]大将)による総攻撃が開始されたのです。

 ところが、鴨緑江軍と奉天正面に展開する主力軍はいずれも苦戦に陥ることになり、全戦線で進撃が停滞したことに焦る総司令部と前線部隊との間に感情的対立が生じるようになりました。クロパトキン大将は第三軍の進撃を食い止めようとロシア軍の戦力を移動させますが、ここで第三軍が孤立することを恐れた総司令部は、第三軍に対して前進停止命令を出します。しかし、乃木大将は「この機を逃すと前進は困難になる」と判断し、停止命令に背いて敵軍を撃退しつつ北上を続けました。

 この戦況に鑑(かんが)みて、総司令部は第三軍に対して奉天市街の西へ迂回することを指示しますが、ここでも乃木大将は独断で奉天への直進を決断します。迂回すれば時間がかかりすぎ、浮足立ち始めた敵軍を逃してしまうかもしれないと危惧したからでした。

 3月7日未明、奉天付近に迫った第三軍は鉄道の確保と敵軍の退路を遮断すべく前進します。これに対して決死の反撃を加えてきたロシア軍でしたが、退路が断たれ包囲されることを恐れたクロパトキン大将は軍を撤退させつつ、第三軍に主力を振り向けます。翌8日、敵軍の撤退を知った満州軍総司令部は第一軍、第四軍、鴨緑江軍に追撃を命じ、9日午後には渾河(こんが)を渡り、奉天城に迫りました。日本軍の急追撃により退路が遮断されることの危機感から、同日午後9時にクロパトキン大将は全軍に退却命令を下します。

 9日午後11時過ぎから10日未明にかけて、ロシア兵を満載した50両編成の列車が次々に奉天駅を出発し、鉄嶺(てつれい)・哈爾浜(はるぴん)に転進を開始します。奉天のロシア軍がまだ余力のある状態でありながらも総撤退する中、日本軍は3月10日、無人となった奉天に雪崩れ込みます。第二軍が奉天に入城し、第四軍は夕刻に奉天北方の鉄道と道路を遮断し、敵軍1300名を投降させ、第一軍は追撃を続けて鉄嶺を占領しました。

 3月10日午後9時、大山巌総司令官は戦闘の終結を宣言、ここに奉天会戦は終わりを告げました。ロシア軍にとって奉天からの撤退は「戦略的撤退」であり、当初は欧米のマスコミもロシア軍の撤退を戦略的撤退と報じていました。しかし、ロシア軍が受けた最も大きな損害は士気の喪失でした。戦略的撤退とは言うものの、実際は鉄嶺までの退却過程における軍隊の秩序は散々なもので、上官への背命行為が頻繁になるなど、将兵の士気は上がらず、軍の立て直しは事実上困難な状態にあったのです。

 クロパトキン大将は戦略的撤退をした後に、増援部隊を待ち、軍の態勢を整えた上での反攻作戦を行うつもりでしたが、余力を残したままに撤退したことの責任を問われ、クロパトキン大将は罷免(ひめん)されてしまいます。この罷免は奉天会戦における敗北をロシア軍自らが認めたことになってしまい、国際的にもロシア軍の敗北が認知されることになりました。ここに日本軍の奉天会戦における勝利が確定することになったのです。

 奉天会戦はナポレオン戦争以来の大会戦と称されるもので、日露両軍が衝突した最大・最後の陸上戦でした。ロシア帝国のウラジミール・ヴイクトロヴィチ・サハロフ陸軍大臣は奉天会戦の後、ロシア軍の敗北を公式に認め、次のように述べています。

 「二つの軍が戦場で出会う時、それぞれ一つずつの目標を持っている。その目標を達成した方が勝者である。だから我がロシア軍は残念ながら敗れた。」

 3月10日は奉天会戦が帝国陸軍の勝利で終結した日として「陸軍記念日」となりました。翌1906年3月10日の第一回陸軍記念日では、奉天会戦の勝利が祝賀され、多くの国民と軍関係者が参加する記念式典が行われました。陸軍記念日はただの軍事的な行事として国民的な士気を高めるためだけでなく、日本の歴史や軍事文化を深く理解するための機会として、大東亜戦争の終結まで毎年開催されました。この日は陸軍の歴史を知り、未来への希望を抱くための重要な日であり、また、戦争に従事した兵士やその家族に対して感謝の意を表すると共に、多くの若者にとっては国防について考える機会でもあったのです。

 ところで、奉天会戦における日本軍の勝因とは何だったのでしょうか。実は、世界史上において未曽有(みぞう)の大会戦となった奉天会戦で、日本軍の勝利の鍵を握っていたのは乃木希典大将が率いる第三軍だったのです。まず、ロシア軍総司令官のクロパトキン大将は、言語を絶する苦闘の末に旅順要塞を攻略した第三軍を何よりも恐れていました。しかも、旅順攻略の後、第三軍がまともな休みもとることなく300㎞北方の奉天に向けて進軍を始めたことは、各国の観戦武官を驚愕させるものでした。また、2月21日に進撃を開始した鴨緑江軍をロシア軍が第三軍と誤認したことも、第三軍に対する恐れが引き起こしたものでした。実際に、鴨緑江軍には第三軍から最精鋭の第11師団が編入されており、ロシア軍は誤認に基づいて鴨緑江軍に対して戦力を傾注させたのです。これは日本軍にとっては好都合な誤認でもありました。

 さらに、第三軍がロシア軍右翼を包囲するように進撃した時には、クロパトキン大将は第三軍の兵力を約10万人と過大に見積もっていました。そして、その兵力に対峙できるようにロシア軍は増援を重ねつつ、10万人の兵力を転進させ、振り向けていたのです。ところが、実際には第三軍の兵力は3万8000人でした。それでは、どうしてロシア軍にこのような誤認や誤断が生じたのでしょうか。それはひとえに、乃木大将の戦闘指揮能力とその揮下(きか)の第三軍が畏怖されていたからです。現実にも第三軍は3万8000人の兵力でロシア軍10万と対等以上の戦いをしていたのです。

 乃木希典大将の率いる第三軍の見事な奮戦が、日本に勝利をもたらすことができたと言っても決して過言ではありません。乃木大将が、無能であり、愚将であったとする戦後の評価がいかに史実に基づかない虚偽であり、悪意に満ちた捏造(ねつぞう)であったかということを、私たちは決して忘れてはならないのです。