2025年9月28日日曜日

第69回:大東亜戦争の真実(20)

 日本海海戦は連合艦隊の圧倒的な大勝利に終わり、ロシアのバルチック艦隊は壊滅しましたが、実はロシアは戦争継続を決して諦めてはいませんでした。ネボガトフ少将が日本海で降伏旗を掲げた翌々日の5月30日、ロシアは宮廷での軍事会議において戦争の続行を決定します。ロシアの皇帝ニコライ二世は、バルチック艦隊は全滅したものの、満洲の陸上戦においては戦況を逆転させることができると考えていたからです。そして、ロシア本国から精鋭部隊30万を満洲に派遣し、反撃態勢を整えるよう計画していたのです。

 しかし、日本海海戦に大勝利した日本には、もはや戦争を継続するだけの兵力も財力もありませんでした。そこで、日本海海戦の勝利を受けて、その6日後となる6月1日、日本政府は米国のルーズベルト大統領に日露講和の斡旋(あっせん)を依頼します。ルーズベルト大統領は、日本の意図をよく承知しており、すぐに講和斡旋に動き出します。まずは、ニコライ二世とは従兄弟で年長者であるドイツ皇帝ウィルヘルム二世に親書を送り、ロシア皇帝ニコライ二世を説得してもらうことにしました。また、ロシアの同盟国であるフランスも、これ以上ロシアが弱体化すれば、仮想敵国であるドイツを利することになると危惧し、ニコライ二世に講和に応じるように勧告します。こうしてニコライ二世は渋々講和会議の開催を承諾することになったのです。そして、6月3日、ルーズベルト大統領からニコライ二世が講和会議の開催を承諾したという知らせが日本政府にも伝えられたのです。

 ところで、6月7日にルーズベルト大統領は日本政府の特使として米国に派遣されていた金子堅太郎を大統領官邸に呼び出します。そこでルーズベルト大統領は、食事を共にした後、講和斡旋の経過を話した上で、次のような勧告をしました。

 「いよいよ講和談判の開始になると思うが、ここで君に忠告することがある。この際、日本は速やかにサガレン(樺太)に出兵し占領する必要がある。1旅団の陸軍と2、3の砲艦を派遣すれば、すぐに占領できる。講和談判が開始される前に早くサガレンを攻撃するよう日本政府に言ってもらいたい。」

 ルーズベルト大統領が樺太占領を強く指示したのは、講和交渉において日本側を有利にするためでした。なぜなら、ロシアが当初、講和に後ろ向きであったのは、ロシア側はこの戦争において局地的には敗北していたものの、自国領内に攻め込まれたわけではなく、ロシアの領土が失われたわけではないという理由があったからでした。そこで、ルーズベルト大統領は、占領しやすい樺太を攻略したらどうか、講和会議が開始される前であれば堂々と作戦を実行することができるはずだ、と提案したのです。

 ルーズベルト大統領からの講和提議が日本に伝達された6月9日、政府首脳会議では樺太攻略についても話し合いが持たれました。伊藤博文枢密院議長は「それはやるがよい。何も戦争を進めるのと大統領の平和勧告とは全く別物である」と承諾し、山縣有朋参謀総長も「準備はできており、外交を妨げぬならやってよい」と賛成しました。そして、翌6月10日、樺太攻略作戦の立案者である長岡外史(ながおかがいし)大本営参謀次長は小村寿太郎外相の私邸を訪ね、自説を展開し、了承を求めました。小村外相は「是非やってもらいたい。講和談判にも都合がよい。ただ海軍がどうであろうか」と心配していたのです。

 小村外相の心配した通り、海軍には樺太攻略は火事場泥棒に類する行為として躊躇する向きがあり、さらに日本海海戦で破損した軍艦の修理や、濃霧による視界の不良など、あれこれと理由を挙げて賛成していなかったのです。ここで長岡参謀次長は一計を案じます。それは、児玉源太郎満州軍総参謀長の力を借りて、局面を打開しようというものでした。なぜなら、元老たちでさえ児玉総参謀長に対しては頭が上がらなかったからです。長岡参謀次長の思惑通り、「百年に一人の策略家」と称えられた児玉総参謀長の鶴の一声に、元老や政府首脳は態度を一変させます。そして、海軍も艦隊の派遣を了承しました。

 6月15日には山縣参謀総長を中心に、桂首相、寺内陸相、小村外相などが協議した上で、樺太攻略作戦は瞬く間に決定されました。そして、6月17日には天皇の裁可も降り、第十三師団を中心とした樺太遠征隊は、日本海海戦直後に編成された第三、第四艦隊からなる北遣(ほくけん)艦隊に護送されて、7月7日早朝に南樺太のアニワ湾に上陸しました。樺太のロシア軍は兵力2000名、砲兵1個ないし2個中隊程度で、防衛軍と呼べるものではありませんでした。民兵の多くも囚人や高齢者の寄せ集めであり、散発的な抵抗はあったものの、日本軍の敵ではなかったのです。

 こうして、遠征軍は7月9日には樺太南部の要衝コルサコフを占領し、24日には師団主力が北部アルコア付近に上陸し、27日までに樺太北部の要衝であるアレキサンドルフとルイコフを占領したのです。そして、7月31日にはロシア軍は降伏し、日本軍は樺太全土を制圧することができました。「講和談判を有利に導く唯一絶対の力は講和大使の能弁でも、駆け引きでもなく、軍の威力を伸ばして敵を説服(せっぷく)させることだ」との児玉総参謀長の言葉通り、樺太占領は日本がポーツマスでの講和交渉を有利に進めるための交渉材料となったのです。

 もしも樺太全土を制圧していなければ、ロシアとの講和交渉は日本にとってもっと不利なものになっていたかもしれないのです。そのことを何よりも見抜いていたのが、ルーズベルト大統領であり、このようなルーズベルト大統領の日本への肩入れなしには、ロシアとの講和交渉は成立していなかったかもしれないのです。そして、ここまでルーズベルト大統領が日本の立場に配慮し、日本に有利になるように取り計らってくれたのは、ひとえに政府特使として渡米した金子堅太郎の功績のゆえでした。

 こうして、アメリカ合衆国第26代大統領セオドア・ルーズベルトの仲介により、1905年8月10日から日露講和会議が開催されました。米国ニューハンプシャー州のポーツマス近郊のポーツマス海軍造船所(ボストンから約85㎞北東にある軍港)で行われたこの会議は、「ポーツマス講和会議」とも呼ばれています。10回に及ぶ本会議を経て、9月5日午後3時47分、日本全権小村寿太郎外相とロシア全権セルゲイ・ウィッテ前蔵相の間で日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、18か月にわたって続いた日露戦争は終結したのです。