日露戦争に勝利した後、日露戦争において日本に対して最も好意的で、日本の立場を擁護し、かつ支援してくれた米国との関係が急激に悪化していくという難局が待ち受けていました。その契機となったのは、「桂・ハリマン協定」の破棄にあったことはよく論じられることですが、しかし、その陰には米国のアジアに対する国家戦略、殊(こと)に満洲権益をめぐる明確な戦略があったことを見落としてはなりません。つまり、米国は欧州列強に遅れてアジアに進出することになりましたが、その遅れを取り戻すために米国は機会均等、門戸開放を唱えて支那大陸への進出をうかがっていたのです。1899年のジョン・ヘイ国務長官による門戸開放宣言はその表明であり、列強諸国に対して支那の門戸を平等に開放するよう求めたのです。この宣言には日本政府も賛意を示し、ロシアによる満洲進出を排除するという点において、日米の利益は一致していました。
ところが、日露戦争の結果、この構図が変化し始めます。日本の満洲利権の獲得は、日本が米国に先んじて支那大陸に進出したことを意味していたからです。日露戦争終結の直前となる1905年8月29日に米国のセオドア・ルーズベルト大統領が記した書簡には次のような言葉が綴られていました。