2026年4月19日日曜日

第86回:大東亜戦争の真実(32)

 1905年に日露戦争に勝利してからちょうど40年後、日本は大東亜戦争に敗戦するという歴史上かつてない国家的危機に見舞われます。日本はなぜ大東亜戦争を戦わなければならなかったのでしょうか。そして、かくも悲惨な敗戦という運命を引き受けなければならなかったのでしょうか。40年の歳月が流れる中で、当時の日本はどのような国家的課題に直面していたのか、そして、いかにして降りかかる国難を乗り切ろうとしたのか、先人たちは何を考え、どのような覚悟と決意をもって大東亜戦争へと続く道のりを歩んできたのか、日露戦争後において日本国と日本国民が辿ったその足跡を思い起こしながら、大東亜戦争の真実について改めて見つめてみたいと思います。

 日露戦争後において、日本の歴史の流れを決定づけるような重要な出来事がいくつかありました。その中で、最初に取り上げておきたいのが、「桂・ハリマン協定」をめぐる一連の出来事です。これは「ハリマン事件」とも呼ばれ、日米関係が悪化する遠因になったとされる外交事件です。

 「桂・ハリマン協定」とは、1905年10月12日に桂太郎首相と米国の実業家エドワード・ヘンリー・ハリマンとの間で交換された覚書のことで、南満州鉄道を日米の合弁事業とするものでした。ハリマンは「鉄道王」と呼ばれていた米国の実業家であり、世界一周の鉄道網を完成させるために南満州鉄道の買収を提案したのです。日本政府は鉄道を供出すれば経営資金を出す必要がなく、所有権は日米対等にするというハリマンの提案を好意的に受け止めました。そして、元老の伊藤博文や井上馨、山縣有朋などもこの提案に賛意を示していたのです。その理由の一つとして、満州鉄道の運営によって得られる収益がそれほど期待できず、むしろ日本経済に悪影響が出るのではないかという不安が大蔵省や日銀の幹部に根強くあったからです。

 ところが、ポーツマス講和会議から帰国した小村寿太郎外相は「桂・ハリマン協定」に強く反対しました。10月16日、横浜入港直後にハリマンとの予備協定締結に至った事の一部始終を山座円次郎(やまざえんじろう)政務局長から説明された小村外相は、次のように語り予備協定に断固反対する意を表明したのです。

 「こんなことをやられては日露戦争の結果は水泡に帰し、百難を克服して漸(ようや)く勝ち得た満洲経営の大動脈が、米国に奪われてしまう。早速、これを叩き潰(つぶ)す。」

 苦労の末に調印にこぎつけたポーツマス条約において、南満州鉄道は日本が獲得することのできた数少ない経済利権の一つでした。当時の日本が日露戦争に莫大な戦費を費やし、財政的に窮地に陥っていることに付け入るかのようなハリマンからの提案は、小村外相にとってはとても受け入れられるものではありませんでした。それは、戦地に流された将兵の尊い血の代償として獲得した南満州鉄道の利権を、その後の経済的窮乏をしのぐために外国に売り渡すことでもあり、それこそ国家の威信を傷つける愚策であると思ったからでした。また、小村外相は日清戦争直後より、満洲の重要性に着目しており、満洲の鉄道経営は収益性が高く、日本の国益に資するものと確信していたのです。

 小村外相は帰国後、3日間にわたり各所を訪れ、ハリマン提案に断固反対である旨を説いて回りました。その結果、桂首相や元老たちも小村外相の意見に納得し、最終的には10月23日の閣議において「桂・ハリマン協定」の破棄が決定されたのです。そして、1906年1月、日本政府は仮協定の破棄を正式にハリマンに通知します。それに対してハリマンは協定破棄を不服とし、在米特使の高橋是清を通して破棄撤回を要求し、さらに高橋に対して「今から10年のうちに日本は、米国との共同経営をしなかったことを悔いる時が来るであろう」と語ったと伝えられています。

 結局、「桂・ハリマン協定」は破棄されて発効せず、この出来事がその後の日米関係悪化の要因とされることがあります。はたして小村外相による協定の破棄は、満洲南部における日本の拠点を守った「英断」であったのか、それとも、満洲をめぐる日米対立の序章となり、日米蜜月時代の終焉をもたらした歴史的な「愚虚」であったのか、今日でも見解は対立しており、その歴史的評価はまったく二分されているのです。

 ここで、歴史的評価を下す前に、一つだけ私たちが忘れてはならないことがあります。それは、私たちは誰一人として「桂・ハリマン協定」がそのまま正式に締結された場合、その後の歴史がどのように展開されたのか、その真実を知らないということです。確かに、「桂・ハリマン協定」が破棄されることにより、日米関係が悪化したというのは事実であり、かつ、この出来事が大きな節目となり、日米開戦に突き進むことになったという側面はあるかもしれません。しかし、だからといって、「桂・ハリマン協定」が締結されていれば、日米関係は決して悪化することはなく、いつまでも日米の蜜月時代が続いていたと断言してもよいのでしょうか。

 私たちは、「もしもあの時」という仮定の話を持ち込み、歴史の教訓としようとするところがありますが、そのような視点からの考察には一つの落とし穴があるように思うのです。それは、「今言(きんげん)をもって古言(こげん)を視(み)る」ということです。つまり、私たちは歴史の結果を知った上で、過去の出来事を現在の物差しや価値観で見つめ、その視点から過去を判断してしまうようになるからです。私たちは「今言」(現代の価値観や見識)をもって「古言」(過去の価値観や先人の生き方)を見てはならないし、そのような視点で歴史を裁いてはならないのです。「桂・ハリマン協定」の破棄により、日米関係は確かに悪化の一途をたどりました。そして、その後の日米関係はますます険悪なものとなり、やがて日本は米国を仮想敵国とみなすようになってしまったのです。このような歴史的事実を知っているからこそ、私たちはつい、もしもあの時「桂・ハリマン協定」が締結されていたら、日米関係は良好であり続け、日本は全く別の道を歩んでいたに違いないと考えてしまうのです。

 しかし、そのように考えることができるならば、その反対のことが起きたかもしれないのであり、その可能性は決して否定できないと思うのです。「桂・ハリマン協定」の締結により、米国がロシア帝国以上に強権的に満洲進出を加速し、もしかしたら満洲経営の主導権を米国に完全に握られ、日本は米国に従属するしかない立場に追いやられたかもしれません。なぜなら、米国は国家的目標を実現するためには、手段を選ばないからです。それは、大東亜戦争に至るまでの対日制裁を見れば明らかなのです。排日移民法による排日運動、徹底的な対日経済封鎖、さらには「ハル・ノート」のような最後通牒(つうちょう)を突き付けてくるのが米国の偽らざる姿だったからです。

 協定破棄を評価した一人に大川周明(おおかわしゅうめい・1886-1957)がいます。大川はその著書『米英東亜侵略史』の中で、次のように述べています。

 「日本国民はハリマンが秘かに東京に来たころに、講和談判に不平を唱えて焼き打ちの騒動となり、戒厳令まで敷かれたのであります。それなのにその少なき獲物のうちから、満鉄をアメリカに売ってしまえば、勝利の結果を全く失い去るのに等しいのであります。当時もし、日本国民がハリマン来朝の真意を知ったならば、その激昂(げっこう)は一層猛烈であったに相違ありません。想うにハリマンは、日本が経済的危機に迫っていたのに乗じ、講和談判斡旋の恩を笠に着て、日本から満鉄利権の半分を見事に奪い取ったもので、もし小村全権が敢然(かんぜん)これに反対しなかったならば、おそらく日本の大陸発展が、この時すでにアメリカのために阻止されてしまうはずであったのであります。」

 私たちが歴史の中に生きるとはどういうことなのでしょうか、また、歴史を教訓とするためにはどうすべきなのでしょうか。そのために絶対にしてはならないことは、「今言をもって古言を視てはならない」ということです。私たちは先人たちがどれほどの議論を重ね、どれほど時間を費やし、ありとあらゆる英知を集結して国策の決定に至ったのか、その思いを何よりも尊重しなければなりません。「桂・ハリマン協定」の破棄決定に関して見解が分かれることは理解できます。「もしもあの時」という視点で歴史を見つめることが全く無意味であるとも思いません。しかし、それでも私たちは先人たちのその時の決意と覚悟、そして、国家と国民の将来に対して重大な責任を担った先人たちの決断を尊ぶべきではないかと思います。

 「桂・ハリマン協定」に賛成した人たちも、また、反対の立場にあった人たちも、国家の行く末を案じ、国家を愛する思い、そして、国民生活を思いやる心は同じでした。だからこそ、ハリマンの提案に賛意を示していた元老の伊藤博文や井上馨、そして桂太郎首相も、最終的には小村外相の見解に納得し、協定の破棄を閣議決定したのです。ここには当時の日本政府首脳の熟慮に熟慮を重ねた結果としての大決断があったのではないでしょうか。

 過去の歴史の過ちを認め、それを教訓とすることは確かに大切なことです。二度と同じ過ちを繰り返さないために歴史の教訓として心に刻むことは、現代に生きる私たちにとって何よりも必要なことかもしれません。しかし、それでも、私は先人たちの決断を単純に誤りであったと断罪することは極力避けるべきではないかと思います。歴史の真の教訓とは、なぜ、そのような決断がなされたのか、その真意を探ることによって得られるものだからです。先人たちは愚かであったから、国策を誤ったのではないのです。無責任であったから、無謀な戦争を引き起こしたのでもありません。もしかしたら、先人たちの方が現代の私たちよりも国家をこよなく愛していたかもしれません。国民の生活と幸福を何よりも心配し、国家と国民の行く末を憂いて眠れぬ夜を過ごし、寸暇(すんか)を惜しんで情報収集に奔走し、国際情勢を分析し、真剣な議論を戦わせていたのではないでしょうか。そして、日本国と日本国民の幸福と繁栄だけを願いつつ、深慮遠謀(しんりょえんぼう)の策を講じ、あのような道を歩むことを決断したのではないでしょうか。

 「桂・ハリマン協定」は、歴史の分岐点ともなった重要な出来事であったと思いますが、日本政府の決断は、協定の破棄でした。その後、日米関係は悪化の一途をたどりますが、私たちはその決断が正しかったのかどうかではなく、そのような決断をした先人たちの思いを受け止めるべきなのです。歴史の中には数えきれないほどの生命がけの決断があり、誰にも分かってもらえないような苦渋の選択がありました。その決断と選択を何よりも尊重するところに、歴史の真実はその姿を現してくれるように思えてならないのです。私たちが歴史を裁く者ではなく、歴史を愛する者となり、なぜあのような道を歩まなければならなかったのか、その真意を心から知りたいと希求するようになった時、歴史はその真実を私たち一人ひとりの心に語りかけてくれると、私は信じたいと思います。