2024年12月22日日曜日

第28回:「日本被団協」のノーベル平和賞受賞とそこに隠された偽善

 
 12月10日、世界に被爆の実相を伝えてきた日本原水爆被害者団体協議会(被団協)がノルウェーの首都オスロで開かれたノーベル平和賞の授賞式に臨み、メダルと賞状を授与されました。そして、被団協を代表して田中煕巳(てるみ)代表委員が核廃絶に向けた演説を行いました。

 この演説の中で田中煕巳代表委員は、被団協の運動目的について次のように話されました。
 「私たちは1956年8月に『原水爆被害者団体協議会』(日本被団協)を結成しました。生きながらえた原爆被害者は歴史上未曽有(みぞう)の非人道的な被害を再び繰り返すことのないようにと、二つの基本要求を掲げて運動を展開してまいりました。一つは、日本政府の『戦争の被害は国民が受忍しなければならない』との主張に抗(あらが)い、原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償わなければならないという私たちの運動であります。二つは、核兵器は極めて非人道的な殺りく兵器であり人類とは共存させてはならない、速やかに廃絶しなければならない、という運動であります。」

 また、「核兵器の保有と使用を前提とする核抑止論ではなく、核兵器は一発たりとも持ってはいけないというのが原爆被害者の心からの願いであります」とも述べ、最後に、「人類が核兵器で自滅することがないように。そして、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と演説を締めくくりました。

 この演説文を通読してみた時、最初に感じたのは何とも言えない違和感でした。また、聞き慣れた言葉の羅列は余りにも皮相的で、心を揺さぶるような内容はほぼ皆無でした。確かに、被団協の方々が恒久平和を求めていることは偽りのないことでしょうが、大きな思い違いをしておられるように感じ、悲しみを覚えるとともに、不穏な偽善の香りがしてならなかったのです。

 そこで、率直に感じた違和感について、あるいは演説文の中に見え隠れする偽善についてどうしても書き残しておきたいと思いました。なぜなら、このような偽善によって、あるいは身勝手なご都合主義によっては、永遠なる世界平和を築くことは絶対にできないと思うからです。

 まず、最初に感じた違和感ですが、それは被団協の運動方針に関するものです。田中代表委員は「原爆被害は戦争を開始し遂行した国によって償われなければならない」と言いながらも、その矛先は日本政府にのみ向かっているのです。演説の中で田中代表委員は次のようにも語られています。

 「何十万人という死者に対する補償はまったくなく、日本政府は一貫して国家補償を拒み、放射線被害者に限定した対策のみを今日まで続けております。もう一度繰り返します、原爆で亡くなった死者に対する償いは、日本政府は全くしていないという事実をお知りいただきたいというふうに思います。」

 原爆の悲惨さと被爆の実相を世界中に伝えてきたのが被団協であるというのですが、この演説の中で原爆を投下した米国の責任については一言も触れられていません。当時の国際法に照らし合わせてみれば、非戦闘員に対する大量殺戮(さつりく)としての原爆投下は明らかに国際法違反であり、戦争犯罪なのです。それなのに、なぜ米国の原爆投下の非情については何も語らないのでしょうか。原爆を投下した米国ではなく、投下された日本政府の責任を問うというのはどういうことなのでしょうか。

 戦後の日本人は最初の第一歩において、とんでもない間違いを犯しているのではないか、だから大東亜戦争について全く頓珍漢(とんちんかん)な評価しかできず、戦争犯罪である原爆投下についても見当はずれの責任追及をしてしまうのではないか、そのように思えて仕方ないのです。そのことを象徴的に表しているのが、広島平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑に刻まれた言葉です。
 安らかに眠って下さい
 過ちは繰り返しませぬから

 この言葉の主語は一体、誰なのでしょうか。大東亜戦争を始めた日本政府なのでしょうか、それとも戦争を計画し、実際に作戦指揮を執った戦争指導者のことなのでしょうか。もしそのように考えているとしたら、私たちはやはり初めから大きな過ちを犯しているのです。「過ちは繰り返しませぬから」と誓いながら、すでに過ちを犯しているのです。慰霊に刻まれた「過ち」とは、原爆投下という戦争犯罪を意味する以外に解釈のしようがないからです。

 大東亜戦争についての理解や広島・長崎の原爆被害の責任について、そもそも初めから間違った認識をしていて、その間違いに気づくことなく被団協は活動しているのですから、演説文が違和感に満ちた空虚な言葉になってしまうのも当然の帰結なのかもしれません。

 そして、この誤解と錯覚はとんでもない偽善となって世界を巻き込み、再び同じ「過ち」を繰り返させるかもしれないのです。演説文全体を通して、決して看過することができない偽善があるのです。また、この演説文にはすっかり忘れられ抜け落ちてしまったものがあることに気づかなければなりません。それは、原爆犠牲者の切なる願いであり、心からの叫びです。天地に響き渡るように訴え続けている彼らの魂からの懇願です。この願いが聞き届けられない限り、彼らは安らかに眠ることなどできないのです。

 「決して三度目の原爆投下を許してはならない」、これこそが原爆犠牲者の悲願ではないでしょうか。人類の悲劇は広島・長崎をもって終わらせるということなのです。それは、核廃絶という理想論ではありません。現実の世界において核兵器使用の恐怖からすべての人が救われるために、絶対に核兵器を使用することは許さないという人類の一致団結した決意と覚悟こそが願われているのです。

 では、その決意と覚悟とはどのようなものなのか、そのことを私たちははっきりと知らなければならないのです。日本に対して核兵器を使用すると恐喝し、広島、長崎に続けて日本の都市を核攻撃すると脅迫している国があるという事実を認めなければならないのです。その国とは、中華人民共和国です。共産主義思想によって悪の帝国となってしまった中国の暴挙をいかに食い止めることができるのか、このための決意と覚悟が今こそ求められているのです。中国の偏狭で横柄な野望と核兵器使用の威嚇(いかく)から世界を守ることこそ、真の平和運動であり、被爆者の切実なる願いなのです。

 かつて、中国共産党の暗黙の了解を得て、ある軍事研究組織が「核攻撃で日本平定」という動画を発表したことがあります。ここでどのようなことが発信されていたのか、その内容の一部を紹介します。

 「我々が台湾を解放する時、もし日本が軍事的に介入してきたら、たとえ一人の兵士、一機の戦闘機、一隻の軍艦だけであっても、最大限の攻撃を始める。まず核兵器を使う。そして、日本が二度目の無条件降伏をするまで、核兵器を使い続ける。・・・中国は日本に核兵器を必ず使う。そして、日本が降伏するまで使い続ける。その間に日本とは一切の和平交渉に応じない。我々は尖閣諸島と沖縄を取り戻す。我々は尖閣と沖縄を支配して独立させる。」

 さらに、今年の5月20日には中国の呉江浩駐日大使がある座談会で、次のような不遜極まりない発言をしているのです。この大使は中国台湾の関係をめぐって、日本が「台湾独立」や「中国分裂」に加担すれば、「日本の民衆が火の中に引きずり込まれることになる」と言い放ったのです。これが中国共産党独裁国家の本音なのです。

 それなのに、なぜ被団協は中国の脅迫と暴言に対して、一度も非難することはなく、日本に対する核攻撃を公言してはばからない中国に対して、核兵器の不使用を訴え、断固とした抗議をしないのでしょうか。演説文の中で、日本政府を強く非難し、米国の水爆実験による被ばく被害は指摘するのに、どうして中国に対しては沈黙しているのでしょうか。さらに付け加えるならば、今回のノーベル平和賞の授賞式に米英仏の代表は出席しました。しかし、中国の代表は欠席しています。中国の要人が一度でも広島や長崎を訪れ、原爆死没者を慰霊したことがあるのでしょうか。

 このような現実に目を瞑(つぶ)り、ただ理想論としての核兵器廃絶をがむしゃらに訴え、原爆被害の悲惨さとその実相をいかに伝えようとも、最も大切なことが抜け落ちているとすれば、それは不都合な真実には蓋をしてしまう、所詮は偽善でしかないのです。

 このような偽善に付き合わされている若者たちを見ると、なぜか心が痛みます。高校生平和大使と呼ばれている若者たちが一日も早くこの偽善に気づき、二度とない青春時代を決して無駄にして欲しくないと心から祈っています。

 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。あなたがたは白く塗った墓に似ている。外側は美しく見えるが、内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである。このようにあなたがたも、外側は人に正しく見えるが、内側は偽善と不法とでいっぱいである。 (マタイによる福音書 23章 27-28節)