米国のトランプ大統領は3月4日(日本時間5日)、上下両院合同会議での施政方針演説で、「わが国はもはやWokeではない」と宣言しました。「Woke」とは、「wake」(目を覚ます)の過去形で、「目覚めた、悟った」を意味する言葉ですが、トランプ大統領はこれを肯定的な意味で使っているのではありません。元来、「Woke」という言葉は、人種差別や性差別などの社会的不平等に気づくこと、目覚めることを意味したのですが、その考え方が余りにも極端であり、過激であるため、むしろこの言葉は嘲笑的なものとして、あるいは皮肉を込めた意味として使われるようになりました。日本では「意識高い系」とも意訳されていますが、これは本当に意識が高いという意味ではなく、むしろ軽蔑(けいべつ)的な意味を含んでおり、「お目覚め」と揶揄(やゆ)されて用いられることもあります。
ところで、「わが国はもはやWokeではない」との宣言は、米国がDEI(多様性・公平性・包括性)推進策を廃止するということを意味しています。DEIとは、すべての人に公正な機会を与え、一人一人が不当に偏った立場に置かれることなく、多様な背景を受容できる社会の実現を目ざすものです。そして、このような価値観に共鳴する人が「Woke」、つまり、目覚めた人、悟った人であり、意識の高い進歩的な人々であるというのですが、果たしてそうなのでしょうか。
「Woke」とは、「目覚めた」という意味なのですが、その目覚めとはいったい何を意味しているのでしょう。創世記には人間始祖が蛇の誘惑に陥り、神の戒めに背いて罪を犯してしまったことが記されています。この時、蛇はどのようにして人間を誘惑したのか。蛇は、神の戒めを破ったとしても、むしろ自分たちの目が開かれ、善悪を知る者となり、さらには神のごとき者になれる、と語りかけました。つまり、目が開かれることで神のようになる、目覚めることで善悪を知る者になれるというのが、蛇の誘惑の言葉であり、神に反逆させるための罠だったのです。いまだに蛇の言葉に囚われ、この罠に陥ったままでいるのがWokeと呼ばれている人々の姿なのかもしれません。そのように考えてみれば、トランプ大統領が語られた「わが国はもはやWokeではない」との言葉は、蛇の誘惑から解放され、罪の呪縛から救われるための解放宣言であり、神のもとに回帰するための決意表明だったのではないでしょうか。
では、Wokeと呼ばれる人々が主唱しているDEI政策とはどのようなものなのでしょうか。その代表的なものが、性的・人種的少数派を優遇するというものです。具体的には性の多様性を重視することやLGBTの権利拡大、また、企業が取り組む少数派の権利向上(管理職に占める女性や性的・人種的少数者の比率目標の数値化など)があります。そこで、DEI政策の要ともなっている性の多様性について、その問題点を指摘しておきたいと思います。
トランプ大統領は大統領就任演説において次のように語られました。
「私はまた、公私のあらゆる場面に人種やジェンダーを社会的に植え付けようとする政府の政策に終止符を打つ。われわれは、人種による違いがない実力主義の社会を築く。今日から、米国政府の公式方針として、性別は男性と女性の二つのみとする。」
これは明らかなDEIとの決別宣言であり、リベラルな価値観を吹聴(ふいちょう)する「Woke」と称される人々、自称「意識高い系」の人々の過ちを公然と告発する発言です。そして、DEIとの決別こそが「常識への回帰」であることをトランプ大統領は強調したのです。
トランプ大統領は、過激なDEI政策、とりわけても行き過ぎた「性の多様性」に歯止めをかけるために、「性別は男と女しかない」という極めて常識的な宣言をされました。そして、その後も矢継ぎ早に大統領令を出し、連邦施設の性自認に基づく利用を禁止しました。例えば、トランス女性(出生時は男性)は女子刑務所ではなく、男子刑務所に収監される、トランス女性の女子スポーツへの参加を禁止する、また、トランスジェンダーの軍人については原則として米軍から除隊させる、未成年に対する性別適合治療を公的保険から除外する、などです。
よくよく考えてみれば、どれも常識的な判断であると思われることが、DEIと称されるリベラル的な価値観によって阻止されていたのであり、オバマ・バイデン両政権下では異様なまでにDEI政策が推進されていたのです。とりわけても国家の安全保障に直接的な影響を与える米軍へのダメージは深刻なものでした。戦略や戦術などを学ぶべき貴重な時間が、戦闘とは全く関係のないDEIの教育カリキュラムに奪われ、米軍は戦争に勝つための組織であるにもかかわらず、DEIに焦点を合わせた人権教育が行われていたのです。また、人事評価にDEIが組み込まれることで、有能でもなく、尊敬されてもいない者が、性的・人種的少数者であるという理由だけで将官に昇進することもありました。当然の結果として、部隊の結束は乱れ、軍人一人一人の士気は低下し、新兵募集にさえ悪影響が出ていました。
極めて政治的な理由で軍の人事が決定され、能力主義ではなく、DEI政策により昇進した将官が指揮を執れば、その軍隊は機能不全になります。その顕著な例がアフガニスタン撤退における悲惨な結末でした。米軍はDEI政策を実現するための実験台ではありません。米軍にWokeの兵士が増えると、軍隊の戦闘能力が向上するとでもいうのでしょうか。米国民の自由と生命を守るための組織を機能不全に陥らせるような政策は、その目的のいかんを問わず排斥されなければならないのです。トランプ大統領が米軍からDEIを排除する強力かつ迅速(じんそく)な処置を講じたことは、まさに米国と米国民を救う英断であったのです。
「わが国はもはやWokeではない」という宣言こそ、米国にとってのみならず、世界にとっての福音であることをどれだけの人が分かっているのでしょうか。「Woke」、つまり、目を覚まし、悟った人は、一体何に目を覚まし、何を悟ったのでしょうか。「意識高い系」などと訳されているDEIの価値観に共鳴する人の意識は、本当に高いと言えるのでしょうか。
「世の中にある性別は男性と女性の二つだけである」という全く常識的な判断に異を唱える人のどこが意識高い系なのでしょうか。出生時は男性であったのに自らが女性であると主張するならば、女性トイレを利用でき、女子更衣室で着替えることができ、トランス女性の犯罪者は女子刑務所に収監される、このような社会を実現することを願う人が、なぜ目を覚ました人、悟った人と呼ばれるのでしょうか。
誰もが本心において常識と感じていたことを、今まで誰も口にすることができなかったのです。常識を語ることで批判されることにびくびくし、本心で感じる素直な感情を言い表すと差別主義者とのレッテルを貼られる。DEIという悪魔の言葉に誰もがだまされ、目が開かれるどころか、目がくらまされ、多様性・公平性・包括性という美しい標語に誰もが口を閉ざし、その偽善と独善に反論することも批判することもできずにいたのです。ここに世界の悲劇があり、世界が混沌としている元凶があるのではないでしょうか。
このように世界を覆う暗闇の中に、一条の光を投げかけてくれたのが、トランプ大統領でした。「常識に戻ろう、常識を取り戻そう」と、堂々と宣言されるトランプ大統領の勇気と覚悟が、暗闇をさまよう米国民を救い出してくれたのです。「わが国はもはやWokeではない」という一言が世界を救う光であることに気づく人が、一人、そしてまた一人と増えていくごとに、この世界は闇から光へと近づいていくのではないでしょうか。そして、「わが国はもはやWokeではない」と宣言できる国が、一つ、また一つと増えていくたびに、世界は永遠の平和へと向かっていくのではないでしょうか。
日本国の首相がこのことに気づくにはまだまだ時間がかかりそうですが、いつの日か、日本国の首相が「わが国ももはやWokeではない」と宣言することができるようになることを切望しています。日本国にも常識が取り戻され、日本国民が本当の目覚めと悟りに辿り着くことができることを心から願っています。
神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 (創世記 1章 27節)
さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾(こうかつ)であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 (創世記 3章 1-7節)