大東亜戦争の敗戦から80年を迎える今、国家存亡の危機にあるとさえ思えるような、私たちの愛する祖国、日本の再興と復活を願い、今回は「特別編2」として一つのエピソードをご紹介しようと思います。それは、敗戦後間もない時に、昭和天皇が何をなされたのか、また、そのことをなされる際にどんなお話をされたのか、ということです。それは、私たち日本人が決して忘れてはならないことなのです。
1946年(昭和21年)11月9日、午後8時、一人の男が昭和天皇によって“ある神社”に遣わされていました。天皇陛下が神社に特別に使いを送られるということは、異例中の異例のことでした(これまでに使いが派遣された神社は16社のみです)。そして、この時が、天皇陛下が神社に使いを送ることができる最後の機会でもあったのです。なぜなら、GHQ(連合国最高司令部)により発令される「神道指令」により、天皇陛下が神社に使いを送ることができなくなると思われたからでした。
まさに、最後の機会ともなるはずであろう、その時に、昭和天皇が特別に使いを送られた神社とは、いったいどこの神社だったのか。皇室の祖先神である天照大御神が祀られている「伊勢神宮」でもなく、初代天皇である神武天皇が祀られている「橿原(かしはら)神宮」でもなく、三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)が祀られている「熱田神宮」でもなく、あるいは聖帝とされた明治天皇が祀られている「明治神宮」でもなかったのです。昭和天皇が密かに使いを送られた神社とは、意外にも「近江神宮」(滋賀県大津市)だったのです。
では、なぜ、近江神宮なのか。そこには、昭和天皇による戦後復興への誓いと、近江神宮をめぐる1300年前のある歴史が深く関係していたのです。その史実とは「白村江(はくそんこう)の戦い」でした。
白村江の戦い(663年)に敗戦した後、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・668年に天智天皇として即位)は、ひたすらに国防の強化に取り組まれ、即位の礼さえも延期されて、当時、世界最強とも言われる国防体制をわずか5年という異例の速さで完成させました。北九州の防備のために対馬・壱岐・筑紫などに水城(みずき)と呼ばれる土塁と濠(ほり)を築き、防人(さきもり)を配置して国家の防衛に尽力されたのです。幸いにして、唐・新羅の連合軍が侵攻してくることはなかったのですが、この時に構築された防塁は、図らずもその後の国難において日本を救うことになりました。それが、蒙古襲来でした。はるか600年前にまで遡る天智天皇(てんじてんのう)の御事蹟が国土防衛の砦となったのです。そればかりか、その後の日本は白村江の敗戦から数えれば、およそ1300年もの間、外敵の襲来から守られ続けてきたのです。
日本国にとって第一の敗戦が「白村江の戦い」であったとすれば、日本国の第二の敗戦とも言うべきものが、「大東亜戦争」の敗戦でした。このような歴史を鑑(かんが)みられて、昭和天皇は“もう一つの大敗”を乗り越えられた天智天皇の御事績と御遺徳を心中深くに刻まれ、天智天皇が祀られている近江神宮に使いを送られたのです。そして、この決断をされたのが、1945年(昭和20年)12月15日、神社と国家との関係を断ち切る神道指令が占領軍によって発布された、まさにその当日だったのです。
昭和天皇はこの時の思いについて、1946年(昭和21年)8月14日、首相、閣僚たちを召されたお茶会で、次のようなことをお話しされています。
「終戦記念日にあたって、私はかつて(大正9年春)大宰府を訪れた時に聞かされた、あの有名な白村江戦の故事を思い出した。あのときは百済の再興を支援するべく日本軍が出動したが、唐と新羅の連合軍に完敗してしまった。そのあとで、当時の天智天皇がおとりになった国内整備の経綸(けいりん)を文化国家建設の方策として偲びたい。」
昭和天皇は「1300年前に天智天皇が取り組まれた戦後復興に倣(なら)って、国内を整備し、文化を振興することで、日本国の、そして日本国民の強い復興を心から願いたい」とお話しされたのです。そして、1946年(昭和21年)11月9日、元滋賀県知事であり、近江神宮奉賛会副会長を務め、また、同年の9月21日まで侍従次長として昭和天皇にお仕えしていた稲田周一氏が、昭和天皇の御名代として近江神宮に参拝され、白村江以来となる敗戦の奉告と復興祈願をされたのです。
この時、昭和天皇は稲田周一氏に次のようなお言葉を託されました。
「白村江の敗戦からの復興を成し遂げられた天智天皇に倣い、このたびの大東亜戦争の敗戦から日本国、そして日本国民が立ち上がれるようにどうか助けて欲しい。」
戦後の再起が危ぶまれるほどに荒廃し、焦土と化した日本国が、世界に冠たる経済大国として奇跡的な復興を成し遂げたことを振り返る時に、昭和天皇が抱かれていた並々ならぬ戦後復興への御決意と御辛苦に深く感応された天智天皇の大稜威(おおいつ)と御神徳を感じざるを得ないのです。
そして、このような歴史の真実に触れる時、私たち日本人の心には、われ知らず深い感謝の思いが湧き上がってくることでしょうし、魂を揺り動かすような感動が押し寄せてくるのではないでしょうか。昭和天皇は白村江の戦いの後、敗戦復興に努められた天智天皇の御遺徳を心に抱きつつ、大東亜戦争敗戦後の日本国の復興に御尽力されたのです。
大東亜戦争の敗戦から80年を迎えて、今こそ日本国民一人一人は昭和天皇が戦後復興に御尽力されたことに思いを致し、また、戦後復興の範とされた天智天皇の御事績をも思い起こさなければならないのです。このような歴史の真実が教えられることもなく、あたかもなかったことであるかのように葬り去られているとすれば、日本の新生復活は決してなされないのではないでしょうか。
「忘却は流浪を長引かせ、記憶は贖(あがな)いの秘訣となる」、これはユダヤの格言ですが、まさに歴史を忘却することは、国家の流浪を長引かせるだけであり、その反対に、歴史を想起し、記憶することには、国家を救い、国民を贖う秘訣となるのです。私たちは日本の歴史の真実を忘却してはならないのであり、子々孫々にまで歴史の記憶をつないでいかなければならないのです。
最後に、昭和天皇についてのもう一つのエピソードを紹介します。ここには、実に深淵な意味が込められていると思いますので、戦後80年を迎える今、一人一人の心に刻み、何かを感じていただきたいと思います。
大東亜戦争の敗戦直後のことです。米内光政(よないみつまさ・1880-1948)海軍大将(元首相・海相)が天皇陛下に拝謁(はいえつ)した時、次のように申し上げました。
「こういう敗戦の結果と致しまして今後、たびたび拝謁する機会も恐らくないことと思います。随(したが)って今日は、ゆっくり陛下のお顔を拝みたいと思って参りました。このたびの敗戦には、われわれ、大きな責任を感ずるのでありまするが、敗戦の結果、日本の復興というものは、恐らく50年はかかりましょう。何とも申し訳ないことでありますが、何卒、御諒承(ごりょうしょう)をお願い致します。」
ところが、この言葉を聞かれた昭和天皇は、次のようにお答えになられたのです。
「50年で日本再建ということは私は困難であると思う。恐らく300年はかかるであろう。」
昭和天皇が、日本再建までには300年かかるであろう、と言われたことには、どのような意味があるのでしょうか。大東亜戦争の敗戦直後、なぜ、昭和天皇は近江神宮に使いを送られたのか、その意味を尋ね求めるならば、昭和天皇が語られた日本再建の真意が見えてくるのではないでしょうか。あの白村江の戦いの敗戦から300年といえば、元号で言えば応和(おうわ)年間にあたり、それは村上天皇(在位:946-967年)の御治世になります。この時代は後世に天皇親政の理想的な時代として聖代(せいだい)視された「延喜・天暦(えんぎてんりゃく)の治」のただ中でもありました。
昭和天皇が「おそらく300年かかるであろう」と語られたことの真意はどこにあったのでしょう。昭和100年を迎える今年、そして、日本国にとっての第二の敗戦から80年となる今こそ、私たちは日本国の歴史について真摯に向き合わなければならないのではないでしょうか。そこから、日本が新生復活する道が開かれてくるに違いないと確信しています。
これはわれらがさきに聞いて知ったこと、
またわれらの先祖たちが
われらに語り伝えたことである。
われらはこれを子孫に隠さず、主の光栄あるみわざと、
その力と、主のなされたくすしきみわざとを
きたるべき代に告げるであろう。
主はあかしをヤコブのうちにたて、
おきてをイスラエルのうちに定めて、
その子孫に教うべきことを
われらの先祖たちに命じられた。
これは次の代に生れる子孫がこれを知り、
みずから起って、そのまた子孫にこれを伝え、
彼らをして神に望みをおき、
神のみわざを忘れず、その戒めを守らせるためである。 (詩篇 78篇 3-7節)