1858年に締結された日米修好通商条約は、日本へのアヘン輸入を禁止しており、この条文のお陰で日本は清国のようにアヘン漬けにされることはなかったのですが、実は、この他にも日本が見えざる神の御手によって守られていたとしか思えないような歴史の真実がいくつかあるのです。
まずはイギリスの対日戦略についてお話ししておきたいと思います。イギリスはアヘン戦争の勝利により清国に対する支配権を確立しましたが、実はアヘン戦争については本国において相当の非難がありました。アヘンの密貿易により経済的利潤を追求したことよりも、清国にアヘンを蔓延させることで、その国力を弱体化させ、さらには戦争という手段によって清国での支配権を確立したことについて厳しい目が向けられていたのです。「史上最も恥ずべき戦争」と自国民から非難されたのがアヘン戦争でもあったのです。
このような国内世論を背景として、イギリスは日本に対するアヘン交易を強引に求めることはありませんでした。しかし、それ以上にイギリスの対日戦略に影響を与えた要因がありました。それがロシアの存在でした。アメリカがイギリスへの対抗意識をもって日本に開国を要求したように、イギリスはロシアへの対抗意識をもって対日戦略を展開しようとしていたのです。
では、ロシアに対する対抗意識とはどのようなものだったのでしょうか。アヘン戦争を契機として西欧列強は次々に清国に進出するようになりましたが、その中でもロシアの支那大陸に対する南下政策はイギリスにとって何よりも警戒すべき脅威となっていたのです。ロシアは17世紀後半よりシベリアから極東方面に勢力を拡大し、不凍港の確保に乗り出しました。さらに領土拡張と経済的権益を獲得するために清国に手を伸ばし、清国が太平天国の乱(1851年~64年)やアロー戦争(第二次アヘン戦争・1856年~60年)で苦しんでいるのに乗じて、1858年に清国との間に愛琿(あいぐん)条約を締結します。この条約によりロシアは黒竜江左岸を領有し、沿海州の共同管理を認めさせます。このようなロシアの南下政策を最大の脅威とみなしたイギリスは、ロシアへの対抗意識から日本に対する戦略を変更せざるを得なくなったのです。
ところで、イギリスは幕末時代の日本との間で局地的な戦争を経験していました。それが、薩英戦争(1863年)であり、馬関(ばかん)戦争(四国連合艦隊下関砲撃事件・1864年)でした。1862年の生麦事件を契機として勃発した薩英戦争では、イギリスの軍艦7隻が派遣されますが、薩摩軍の砲撃により大きな打撃を受けることになります。また、薩摩側の死傷者が20名足らずであったのに対して、イギリス側の死傷者は63名でした。薩英戦争でも、馬関戦争でも、勝利したのはイギリス軍でしたが、その反面、イギリスは日本の武士の驚くべき戦闘能力を思い知らされることになります。もしも、そのまま戦争が継続され陸戦になった場合、日本の武士と戦わなければならないということはイギリス軍にとっては恐怖そのものであったのです。
どれほどイギリス軍が日本の武士を恐怖したのか、そのことを如実に示す手記があります。それは、初代英国駐日公使であったラザフォード・オールコックにより書かれた幕末日本見聞記『大君(たいくん)の都』(1863年出版)に記された次のような文章です。
「ペルシア王クセルクセスの軍隊のような大軍でも編成しない限り、将軍の居城のある町の中心部をたとえ占領できたとしても、広大すぎるし敵対心をもった住人のもとでは安全に確保し、持ちこたえられるヨーロッパの軍人はいないだろう。」
その一方で、イギリスとの戦争に敗れた薩摩・長州両藩はいち早く尊王攘夷運動の限界を認め、尊王開国運動に転換することで、天皇を中心とする近代国家建設を目指すようになります。そして、仇敵(きゅうてき)であるイギリスから西洋式の武器を購入することにしました。特に薩摩藩はイギリスからの武器輸入に積極的であり、潤沢な経済力を背景に先駆けて軍事力の近代化に成功したのです。
薩英戦争と馬関戦争の経験から、イギリスは日本の武士の戦闘力・組織力がいかに優れたものであるかを知り、さらに日本は統治の行き届いた前近代的国家であり、決して侮(あなど)れない軍事強国であることを認識させられたのです。そして、日本が敗戦を転機として、近代化に舵を切り、イギリスから大量の武器を輸入することになったことを、イギリスはロシアの南下政策に対抗するための絶好の機会と考えたのです。
イギリスのロシアに対する対抗意識と、日本の武士の戦闘力の充実、そして、日本が尊王開国に政策を転換したことが、日本の植民地支配を阻止するための神の摂理として働いていたのです。イギリスは日本を植民地支配するのではなく、むしろ日本を近代国家へと発展させ、さらには近代的軍事国家とすることで、日本をロシアの南下政策から支那大陸を守るための防波堤にしようとしたのです。
さらに言えば、この頃のイギリスとアメリカには、ある種の厭戦(えんせん)気分がありました。なぜなら、イギリスはアヘン戦争以後、いくつかの戦争を余儀なくされ、軍事的にかなり消耗していたからです。特に、インドで起きたインド大反乱(1857年~58年・セポイの反乱とも呼称されてきたインド人傭兵(ようへい)による反乱)では、本国から多数の援軍が送られており、第二次アヘン戦争(1856年~60年)と相まって、相当な軍事的負担になっていました。また、ペリーの来航により日本に開国を求めたアメリカでは、米国史上最大の内戦となる南北戦争(1861年~65年)が勃発します。4年間にわたる激しい内戦は南北あわせて約400万人の将兵を巻き込み、南北の戦死者の数は約62万人に上りました。
イギリスが第二次アヘン戦争やインド大反乱に、また、アメリカが南北戦争に足を取られ、日本に対して武力侵略をする機会を失ったことは、天が日本を守るために与えて下さった幸運だったのではないでしょうか。まさに天運ともいうべき不思議な巡り合わせにより、日本は欧米列強の植民地支配から守られたのです。
さらに、米国との日米和親条約をはじめ、日本と欧米列強との間に締結された不平等条約は、皮肉にも日本の独立を守るための砦(とりで)となりました。1858年に日本はアメリカと日米修好通商条約を締結し、さらには同年、イギリス、ロシア、オランダ、フランスとの間にも同様の条約を締結しました(安政の五ヵ国条約)。たとえ不平等な条約であっても、欧米列強との条約締結は国際社会への編入を意味しており、それは条約締結の当事国を主権国家として認定することでもあったのです。そして、主権国家として認定された日本は、もはや無主地ではなく、その国を勝手に併合したり、植民地にしたりすることはできません。つまり、不平等条約の締結が日本の植民地支配を阻止する強固な砦となったのです。
ロシアの南下政策を脅威とみなしていたイギリスは、日本との国際条約を締結した意義について、次のように述べています。これはオールコック初代英国駐日公使の言葉です。
「国際条約がある限り、ロシアは日本をわれわれの同意なしに征服したり、併合したりすることは困難であろう。」
日本に対する神の摂理とは、どのようなものだったのか。天運により守護された日本に与えられた天命とはどのようなものだったのか。そのために、アメリカは日本に開国を迫り、イギリスは日本の近代化に貢献しました。また、日本との間に国際条約を締結することにより、日本は主権国家として認められ、植民地支配から免(まぬが)れることになったのです。このような歴史の背後にある神の摂理を知ることなしに、幕末から明治維新を経て、大東亜戦争にいたるまでの歴史の真実を知ることは決してできないのです。