アヘン戦争の勝利により、イギリスは清国に対して香港島や九龍半島の一部割譲を認めさせ、アヘン貿易を認可させるなどして、ますます清国に対する支配圏を拡大していきました。また、この頃からアジア地域に対する欧米列強の植民地支配は急速に進んでいくことになります。19世紀に入ると、オランダはインドネシアのほぼ全域を支配します。また、イギリスは1866年にビルマ(現ミャンマー)、1895年にはマレーシアを植民地化し、フランスは1863年にカンボジア、1885年にはベトナムを制圧します。そして、1899年にラオスを植民地としてフランス領インドシナ連邦を成立させました。他方、1898年に米西戦争に勝利したアメリカは、スペイン領のフィリピンとグァムを領有し、独立国ハワイを併合します。
まさに、19世紀は欧米列強による植民地支配がアジア諸国を席捲(せっけん)した時代であり、その中で白人の支配を免れていたのは、日本とタイ、そして朝鮮半島だけだったのです。ここでタイが独立を保つことができたことには理由がありました。それはイギリスとフランスによる植民地争奪戦において、タイが地政学的に緩衝地帯(かんしょうちたい:対立する二国の衝突を回避するための中立地帯)となっていたからでした。そこで、欧米列強は白人の手つかずの地となっている日本と朝鮮半島に対して、その侵略の機会をうかがうことになるのです。
イギリスがアヘン戦争に勝利し、清国に対する半植民地支配を確立しつつある時、すなわち、19世紀半ば、日本はまさに幕末の時代でした。江戸時代末期の日本にイギリスの魔の手が迫ります。ここで、まず思い起こされるのが、イギリスがどのようにしてアジアの強国であった清国を支配するようになったかということです。アヘン(麻薬)の密貿易により清国内にアヘンを蔓延させ、国力を弱体化させるという戦略により、イギリスは清国を屈服させたのです。
では、日本は清国のようにアヘン漬けにされたのでしょうか。国内にアヘンが流入し、アヘン中毒者が激増し、その結果としてイギリスと一線を交えるということになったのでしょうか。事実はそうではありませんでした。清国のように日本にアヘンが大量に流入し、アヘン中毒者に悩まされるということはなかったのです。それは、どうしてなのでしょう。ここには天からの恵み、神の摂理とも思えるような実に不思議な真実があったのです。
鎖国体制にあった江戸幕府に対して、開国を迫ったのはイギリスではなくアメリカでした。1853年6月3日、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官マシュー・ガルブレイス・ペリーが率いる黒船が、神奈川県の浦賀沖に現れます。これが黒船来航と呼ばれる出来事です。そして、黒船4隻を率いたペリーは幕府に開国を要求したのです。その結果として、翌1854年3月3日に日本は日米和親条約を締結し、伊豆下田と箱館の2港を開港します。ここに215年続いた日本の鎖国体制は終焉することになったのです。
ところで、アメリカが日本に開国を迫った目的とはどのようなものだったのでしょうか。実は、アメリカが日本に開国を要求した主目的は、清国を支配するためでした。つまり、清国侵略の布石とするために、また、清国での経済的利益を確保するための中継拠点とするために、日本を開国させようとしたのです。そして、この背景には、欧米列強が繰り広げるアジア侵略をめぐる当時の情勢が深く関わっていました。
アヘン戦争を契機として西欧列強(イギリス、フランス、ロシア)は次々と清国に進出し、その巨大市場を独占しつつあったことに、アメリカは危機感を募らせていたのです。イギリスとの独立戦争(1775年~83年)に勝利したアメリカは、西欧列強に遅れてアジア進出に乗り出します。そして、清国の巨大経済市場を巡り、特にイギリスへの対抗意識を持つようになったのです。
アヘン戦争の勝利により清国への支配圏を拡大したイギリスは、次に東アジアで唯一独立を保ち、植民地化されていなかった日本に狙いを定めます。そして、清国にアヘンを蔓延させて国力を弱体化させたように、日本に対しても大量のアヘンを流入させ、鎖国体制を打破して植民地化するのではないかと思われていたのです。このようなイギリスの計略に対して、アメリカはイギリスの日本進出を阻止するために、先駆けて日本に開国を要求してきたのです。
日米和親条約締結から4年後、1858年6月19日に日米修好通商条約が結ばれ、日本とアメリカの自由貿易が認められることになりました。しかし、この条約で何よりも重要なことは、第4条に規定された次の一文にありました。
「アヘンの輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤(さんきん:1斤は600g)以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。」
アメリカは条約によって日本へのアヘンの輸入を禁止していたのです。それは、いかなる理由によるのでしょうか。実は、この第4条の規定は元々の条文にはありませんでした。ところが、アメリカの全権であったタウンゼント・ハリスがアヘンの輸入を禁止する案を提示し、条約の中に書き入れたのです。それはアメリカの戦略上の都合によるものでした。アヘン交易を禁止しなければ、イギリスがかつて清国に対してアヘンを密貿易したように、日本に対してもインド原産のアヘンを売り込み、日本市場を掌握するに違いないとアメリカは警戒していたのです。
アメリカはイギリスへの対抗意識により、日本がアヘン漬けにされることを断固として阻止しようとしました。結果的には、このアメリカの戦略的意図が日本をアヘンの弊害から守ることになり、日本は清国のようにアヘン中毒に侵されることなく、健全なままに近代国家への道を歩むことができたのです。
米英の戦略上の都合により、日本へのアヘン輸入は禁止され、日本はアヘン漬けの悪夢から救われたのですが、ここには目には見えない天の配慮としての神の摂理が働いていたのです。幕末から明治維新へと向かうあの時代、日本は天からの恵みにより、見えざる神の摂理によって守られていたのです。
それでは、どうして天は日本という国を保護し、神の摂理の中で守られたのでしょうか。それは、天が願われた使命を日本が担わされていたからであり、その天命を果たすために、神はまるで神風を起こすかのようにして日本を守られたのです。その一つが、日米修好通商条約の第4条でした。見えない神の摂理の中で、アメリカもイギリスも知らず知らずのうちに、神の御手の中で神風を起こす役割を演じさせられていたのです。