2025年4月13日日曜日

第47回:東京大学入学式の式辞と日本の国難

  4月11日、東京大学の入学式が東京都千代田区の日本武道館で開かれました。今年度の新入学生は3122人で、日本の最高学府に学ぶ彼らこそ、日本の将来を担うエリートであるはずです。そして、そのような使命と責任を担うべき新入学生に向けてどんな式辞が語られたのか。東京大学の藤井輝夫総長は、戦後80年を迎える今年、日本がかつてないほどの国難に見舞われている今、どんな言葉を若者たちに語りかけたのでしょうか。

 かつて、東京大学の入学式で語られる式辞は、新入学生にのみ語りかけられたものではありませんでした。日本の最高学府である東京大学の総長が、一体どんな内容を語られるのか、日本の将来を担う学生たちにどんな言葉を贈られるのか、それは日本国民にとっても、とても意味深いものであったのです。なぜなら、日本の最高の知性を象徴する東大総長の言葉こそが、日本の将来を明るく照らす希望の光となるからであり、さらには日本の未来を指し示す道標(みちしるべ)となるからです。

 大東亜戦争の敗戦後、最初に行われた東京大学での入学式で総長がどんな式辞を語られるのか、それは日本の将来に対する不安を抱えていた日本国民にとっての一大関心事であったのです。1946年5月1日、戦後初の入学生を前にして、南原繁(なんばらしげる)総長が語られた式辞は「真理と個性」と題されたものでした。その冒頭は次のような内容でした。

 「国をあげての戦争は、その国の運命にとってと同じく、個人の生涯に対しても、大なる影響を与えずには措(お)かぬ。殊(こと)にそれが惨澹(さんたん)たる敗北と降伏に終った我が国今次(こんじ)の大戦においては、決定的と謂(い)はなければならぬ。しかし、戦(いくさ)に敗れたそのことは必ずしも不幸であるのではない。国の将来は国民がこの運命的事件をいかに転回し、いかなる理想に向かって突き進むかにあると同じく、個人の未来もこれを転機として、いかなる新生を欲して起(た)ち上がるかに懸かっていると思う。」

 敗戦の経験が国家と個人の運命に多大な影響を及ぼしたことは疑うべくもないことである。しかし、その敗戦は必ずしも不幸ではなく、敗戦という運命的事件を一大転機として、理想に向かって歩むことこそ、今の日本に求められていることである。南原総長は敗戦後の日本の行く末を思い、新入学生に切々と訴えたのです。南原総長の戦争観や歴史観についてはここでは触れませんが、とにかく、日本の将来を転回させるという気概を持つべきこと、そして、一人一人が新生することを願い立ち上がるべきことを、新入生に対して、あるいは日本国民に対して語りかけたのです。

 大東亜戦争の敗戦という、日本の歴史上かつてないほどの国難に直面して、日本国民一人ひとりがいかなる覚悟で立ち向かうべきなのか、そして、何よりも日本国の将来を担うべき東大生がどのような理想を胸に学問に邁進すべきなのか、そのための指針が総長の式辞には示されていたのです。

 大東亜戦争の敗戦から80年を迎える今年、日本はかつての国難を凌駕(りょうが)するほどの国家的危機の最中(さなか)にあります。そのような時代的境遇の中で、東京大学の総長は今年の入学式でどのような式辞を述べられたのでしょうか。その一部を紹介させていただきます。

 「日本の社会には、読み書きができない人はほとんどいないだろうと思っている方が多いのではないでしょうか。・・・しかし、2020年の国税調査によれば、・・・約90万人の方々が義務教育を修了していません。・・・そのことを考えれば、日常生活や経済活動に最低限必要な読み書きに困難を抱えている人が無視できない数存在していると言えます。
 リテラシーはもともと文字の読み書き能力を意味しましたが、今ではネットリテラシーやヘルスリテラシーなど、ある特定の主題分野で知識を活用する力として使われています。私たちの生活には、様々な知識や能力が必要です。今日はこれからの大学生活に必要なリテラシーについて、お話ししたいと思います。
 今、私たちが身につけるべきリテラシーとは、どんな能力なのでしょうか。例えば、マイノリティ・リテラシーです。この30年でヒト・モノ・カネの世界的な流動性がいちじるしく高まり、全国各地で教育を受けたり働いたりする外国人が多くなりました。・・・観光や旅行ではなく、修学または仕事のため外国で一定期間生活するようになると、日本でマジョリティとして暮らしていた時には感じることがなかったさまざまな不便を経験するでしょう。グローバル化と多様性の時代においては、誰もがマイノリティになりうるという現実に向き合う必要があります。
 ・・・創造的な地球市民としての批判的思考と、他者に対するより深い理解や配慮に基づく、新たなリテラシーを育むことが求められます。
 ・・・これから始まる東京大学での生活は、新しい知識だけでなく、新しい視点や人々とのつながりを皆さん一人ひとりにもたらしてくれるでしょう。大学生活を通じて、学びはもちろん、困難に立ち向かう力や誰かを支える心を育んで下さい。」

 国難に立ち向かうために、将来のリーダーとなるべき新入学生に語られた藤井総長の式辞を通して、どのようなことを感じられましたか。式辞の中には、国難という言葉もなければ、国家の理想について語られた言葉もありませんでした。今回の式辞の要点は、「マイノリティ・リテラシー」と「グローバル化と多様性」という言葉によって表現されています。「マイノリティ・リテラシー」こそが、今の時代に何よりも必要とされる能力であるということであり、「グローバル化と多様性」の時代において、マイノリティであるとはどういうことなのか、その意味を深く理解し、他者への配慮に基づく学びが求められているというものだったのです。

 このような式辞を送られた新入学生が日本の将来を担い、また、今ある国難に立ち向かうとすれば、私たちは日本の将来に夢や希望を描くことができるでしょうか。藤井総長は一体何を語りたかったのでしょう。国難にある日本にどんな道標を示そうとしているのでしょうか。今回の式辞について意見したいことは多々ありますが、一つだけ明確にお話ししておきたいことがあります。それは、日本の最高学府、東京大学の総長がいかに時代の潮流から置き去りにされ、今日の国際情勢に対してあまりにも無頓着であり、偽善という衣を纏(まと)った知性によって日本の行く末を眺めているのか、ということです。

 「マイノリティ・リテラシー」や「グローバル化と多様性」という言葉こそ、まさに「ウォーク(Woke)」と揶揄された行き過ぎたリベラル思想の象徴なのです。トランプ大統領が施政方針演説で「わが国はもはやWokeではない」と、誤ったリベラル思想との決別を高らかに宣言されたのに、今なお日本の最高学府の総長が堂々と「私たちの大学はWokeである」と式辞を述べているようなものなのです。

 今ある国難は未だかつて日本国が経験したことのないようなものです。未曽有(みぞう)の国難に際して、国策を誤れば、日本という国が滅んでしまうかもしれないほどの危機的状況の中に日本国民は立たされているのです。しかし、その国難に対処するために最善を尽くすことを怠り、あるいは見て見ぬふりをして無策であり続けるならば、これほどの悲劇があるでしょうか。

 日本国の真の国難とは、未だに日本国の首相が世界の情勢を正しく見つめることができず、行き当たりばったりの政策しか打ち出すことができないことであり、日本の最高学府の総長が時代錯誤も甚だしい認識に基づいて日本の知性を惑わせていることにあるのではないでしょうか。

 東京大学の入学式は毎年、日本武道館で行われます。希望に胸膨らませ、日本の将来に対して大きな責務を負わされた新入学生に、私たち日本国民は何を期待すべきなのでしょうか。今日までの日本の繁栄と平和をこれからも享受するために、新入学生はいかなる心構えで最高学府での学問の研鑽(けんさん)に勤しむべきなのでしょうか。その答えは、実に身近なところにあるのです。新入学生の魂を鼓舞し、彼らの清廉(せいれん)なる情熱を高揚させ、彼らの知性と学識を開花させるために、何よりも必要とされているものがすぐ近くにあるのです。

 それは「靖国神社」です。東京大学の新入学生は日本武道館での入学式を終えたならば、そのまま九段の靖国神社に参拝すべきではないでしょうか。246万6千余柱の英霊を拝することで、幾千万の言葉を語っても伝えることのできない、何よりも美しく尊いものを、その若き胸の内に感じることができるのではないでしょうか。日本の国難を克服する言葉は、首相の口から語られるのでもなく、また、東大総長の式辞によって示されるのでもありません。靖国神社に眠る英霊の御声こそが、国難を乗り越えるための道標となり、日本国民が歩むべき道を照らす希望の光となるのです。

 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、
 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、
 主の戒めはまじりなくて、眼(まなこ)を明らかにする。
 主を恐れる道は清らかで、
 とこしえに絶えることがなく、
 主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、
 また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。 (詩篇 19篇 7-10節)