2025年4月29日火曜日

第49回:日本を滅亡から救った昭和天皇の御遺徳

 大東亜戦争の敗戦から80年となる今年は、同時に昭和100年となる年でもあります。そこで、大東亜戦争の敗戦による国家滅亡の危機から日本がいかにして救われ、戦後の奇跡的な復興を成し遂げることができたのか。そこには昭和天皇の御遺徳があったのですが、この歴史の真実を今日の日本人はどれほど分かっているのでしょうか。昭和100年を迎えた今、日本人として絶対に忘れてはならない昭和天皇の御遺徳についてお話ししておきたいと思います。

 それは、敗戦の翌年、昭和21年(1946年)2月から始められた全国御巡幸のことです。大東亜戦争の敗戦は、日本の歴史上初めて経験する国難であり、占領軍の統治はそれまでの日本の伝統的価値観を粉々に打ち砕くものでした。日本全土は焦土と化し、当時世界の最貧国とまで言われるほどに疲弊(ひへい)した国となり、国民は食糧難に苦しみ、衣服も住居もままならない、まさに瀕死の状態に置かれていたのです。

 GHQの指令により出獄した共産党員たちは、未曽有(みぞう)の国難を政治利用するかのように、天皇の戦争責任を大っぴらに言い広め、「天皇制」の廃止を訴え、さらには天皇を戦犯の第一号として糾弾するという、身の毛もよだつような蛮行をも厭(いと)わず共産革命に奔走(ほんそう)したのです。

 このような戦後の大混乱の中で、昭和天皇は焦土となった全国を巡り歩き、国民一人一人を励ましたいという固い決意をされ、その思いを加藤進宮内府次長に打ち明けられたというのです。その時の昭和天皇のお言葉を加藤次長は書き残していました。

 「この戦争によって先祖からの領土を失ひ、国民の多くの生命を失ひ、たいへん災厄を受けた。この際、わたくしとしては、どうすればいいのだろうかと考え、また退位も考へた。しかし、よくよく考へた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与へることが自分の責任と思ふ。このことをどうしてもなるべく早い時期に行ひたいと思ふ。ついては、宮内官たちはわたくしの健康を心配するだらうが、自分はどんなになつてもやりぬくつもりであるから、健康とかなんとかはまつたく考へることなくやつてほしい。宮内官はその志を達するやう全力を挙げて計画し実行してほしい。」(『昭和天皇の御巡幸』より)

 昭和天皇から全国御巡幸の話があったのは、昭和20年9月27日のことであり、それは昭和天皇御自身がGHQ最高司令官マッカーサー元帥と会見された、その日のことだったのです。

 昭和天皇が全国を御巡幸されることが決定した時、GHQの高官たちは御巡幸について次のような思いを抱いていました。

 「ヒロヒト(昭和天皇)のお陰で父親や夫を殺されたのだから、旅先で石の一つでも投げられたらいい。」
 「ヒロヒトが40歳を過ぎた猫背の小男ということを知らしめてやる必要がある。神様ではなく人間だということを。」
 「眼鏡をかけ猫背の小男を見れば、天皇に対する信仰も崩れるだろう。」

 なぜなら、欧米において敗戦国の指導者たる者はいずれも悲惨な運命をたどっていたからです。フランスを大帝国にまで導き、自ら皇帝となった英雄ナポレオンも晩年にはセント・ヘレナ島という流刑(るけい)地に送られ、その生涯を閉じました。ドイツ第三帝国を率いた総統ヒトラーの人生は自殺という悲劇でその幕を閉じ、イタリアのムッソリーニは民衆の前で銃殺刑にされ、その死体は蹴られたり、唾を吐かれたりしたのです。

 世界中を巻き込んだ世界大戦において最後まで抵抗し、その結果、徹底的に叩きのめされ降伏した日本の君主に対して、国民がどのような感情をぶつけるのか。昭和天皇が全国を巡れば敗戦の悲惨さに打ちひしがれた国民の怒りの矛先は天皇に向けられるはずであり、全国各地では暴動が起きるに違いない。最終的に、ヒトラーやムッソリーニのように処刑されるか、あるいは海外に亡命するか、その運命が凄惨(せいさん)なものになることは疑いようがない。GHQ高官のみならず、海外の記者たちもその運命の悲惨さを予測していたのです。

 しかし、昭和21年2月19日、昭和天皇による全国御巡幸が始まると、GHQ高官たちの予想は大きく裏切られることになりました。最初の訪問先は神奈川県でした。神奈川県はマッカーサー元帥が日本占領の第一歩となった最も占領色の濃い地でしたが、あえて昭和天皇はその地から全国御巡幸を始められ、川崎、鶴見、横浜へと順番に訪問されたのです。

 全国各地では天皇のお姿を一目拝もうと、どこに赴くにも大衆があたり一面を埋め尽くすように集まり、駆け付けた数万人の国民からは一斉に「天皇陛下、万歳」の歓呼の声が沸き起こったのです。天皇に対して、罵倒する者、非難する者、何かを投げつけようとする者、あるいは暴動を引き起こそうとする者など、誰一人いなかったのです。敗戦の悔しさにうなだれていた男たちの目には一筋の光が宿り、最愛の夫や息子を失った婦人たちは陛下のお姿を拝することのできた喜びから感激の涙で頬を濡らしました。陛下のお姿に接した者の中には、自分が目で見ているものは夢なのか現実なのか、と何度も目を擦(こす)る者までいたのです。

 戦争に敗北した君主が全国を巡り歩くならば、敗戦の憂き目に遭った国民がひどい仕打ちをし、その憎しみと怒りをぶつけ、君主をさらし者にすることは、歴史の習わしでもあったのです。ところが、日本全国で起きたことは、歴史上で一度もなかった奇跡と感動の出来事だったのです。全国民を包み込んだ熱狂の渦、「天皇陛下、万歳」の歓呼の絶叫、紅潮した頬を伝って流れる涙、国民一人一人が体験したことは胸の奥深くに刻まれる慶事のようでもあったのです。

 昭和22年12月7日、昭和天皇は2年前に原爆を投下され、およそ14万人の無辜(むこ)の県民が命を落とした広島市へと向かわれました。広島市民7万人が大歓迎し、「君が代」の合唱と共に期せずして「天皇陛下、万歳」の歓呼の声が場内に響き渡ったのです。その時、浜井広島市長が陛下に対して述べられた言葉を「山陽新聞」は次のように伝えています。

 「願わくば特殊な戦災をこうむりました広島市民に深い御心をお寄せくださいますことを謹んでお願いします。」

 その時、陛下は深くうなずかれ、オーバーのポケットから小さな紙片を出され、マイクに向かわれました。そして、慈愛の眼差しで、そこに集った7万の市民を眺められ、力強く、そして御愛に満ちたお言葉を一語一語、朗々たる御声で語りかけられたのです。その言葉は会場の隅々にまで鳴り響き、思いもよらない陛下からのお言葉を聞いた市民は、会場に地響きのようにこだまする万歳三唱を絶叫し、7万の大群衆は感涙にむせび泣いたのです。全国の御巡幸において、昭和天皇自らが国民に対してお言葉をお読みになられたのは、この時が初めてであり、ここには原爆による惨禍を被(こうむ)った広島市民への格別の配慮が示されていたのです。

 市民たちは日の丸を打ち振り、陛下は何度も何度もお帽子を高く振られて市民一人一人の思いに応えておられたのです。中国地方の御巡幸には占領軍のお目付け役としてGHQ民政局のポール・J・ケントが同行していましたが、この様子を見た彼は戸惑いを隠せず、ただ驚くばかりだったのです。そして、その時の感想を次のような言葉で残しています。

 「天皇を怨(うら)む者など一人もいない。どこへ行っても民衆は歓喜して天皇を迎え、熱狂して万歳を唱え、涙を流す。特に天皇を怨んでいるのではないかと思っていた被爆地ですら、何と7万人という空前の人たちが集まっていた。」

 他の敗戦国では絶対にあり得ないような美しい物語が日本では起きていたのです。まさに、奇跡とも呼べるような瞬間、それが昭和天皇の全国御巡幸でした。大東亜戦争の敗戦から1年足らずの1946年(昭和21年)2月、昭和天皇の御巡幸は、国民が食糧難、貧困、敗戦の衝撃で傷つき、もがき苦しんでいた時代に始まったものでした。先が見えない不安が国民の心に重くのしかかっていたあの時代、昭和天皇の御巡幸こそが、暗闇を照らす一寸の希望の光となったのです。

 そこには、天皇と国民がお互いを思い合い、逆境の時にこそお互いに憎しみ合うのではなく、君民一体となって一つに結び合い、助け合うという日本の理想の姿があったのです。世界でも類を見ないこの出来事は、戦後の日本の運命を左右する決定的な転換点となり、日本国民を失意のどん底から救い出すための希望そのものとなったのです。昭和天皇の全国御巡幸こそ、戦後80年を経た今日の日本の礎であり、日本を滅亡から救った奇跡の物語だったのです。

 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
(マタイによる福音書 9章 35-36節)