日露両国による講和会議は、1905年8月9日を第1回とし、8月29日の第10回まで開かれました。日本全権には小村寿太郎外相と高平小五郎(たかひらこごろう)駐米公使が、ロシア全権にはセルゲイ・ユリエウィッチ・ウィッテ前蔵相とローマン・ロマノウィッチ・ローゼン駐米大使がそれぞれに任命されます。当初、桂太郎首相が全権代表として打診したのは、外相であった小村寿太郎ではなく、元老の伊藤博文でした。桂政権(第1次桂政権)は講和会議が日本側にとってかなり厳しいものになり、講和条件が日本国民には受け入れがたいものになることを予測していました。そこで、それまで4度も首相を務めていた伊藤博文が全権であれば、国民の不満を和らげることができるのではないかと期待したのです。
しかし、最終的に伊藤博文は全権代表の就任を辞退します。日露戦争戦勝の誉れは桂太郎首相が担い、講和によってもたらされる国民の不満は伊藤博文がすべて引き受けるというのは、道理に合わないと反対する声があったからです。こうした事情から、結局、桂内閣の外相であった小村寿太郎が全権に選ばれる結果となったのですが、伊藤博文は交渉が容易でない事情を熟知しており、小村外相に対して、「君の帰朝の時には、他人がどうであろうとも、吾輩だけは必ず出迎えに行く」と語り、励ましていたのです。
伊藤博文をはじめ明治政府の首脳は、なぜ講和条件が厳しいものとなると予見していたのでしょうか。日露戦争で日本は決して圧倒的な勝利を収めたわけではありませんでした。日本海海戦では歴史的な勝利をしたものの、地上戦においてロシア側はいつでも戦争を継続できる準備をしていました。実際に、シベリア鉄道を利用して新たな増援部隊を派遣し、日本軍を圧倒するだけの兵力を集めつつあったのです。その一方、日本軍は開戦直後より連戦連勝を続けてきたものの、それはまさに奇跡的な勝利でもありました。そして、奉天会戦に勝利した頃には、武器・弾薬の補給は途絶えつつあり、死傷者は約20万人、戦費は約20億円(日本の国家予算は2億8000万円)にまで達していたのです。児玉源太郎満洲軍総参謀長は、さらに1年間の戦争継続を想定した場合、さらに25万人の兵力と15億円の戦費が必要であるとして、戦争続行は不可能と結論づけていました。このような事情から講和会議は日本にとって必ずしも有利なものではなく、むしろ困難なものになるに違いないと軍部ならびに政府首脳は一様に理解していたのです。
7月20日、シアトルに到着した小村全権一行は、その1週間後にワシントンに赴き、ルーズベルト大統領を表敬訪問します。この時、小村全権はルーズベルト大統領に戦争の仲介を引き受けてくれたことへの謝意を表すと共に、「大統領はなぜ日本に対して好意をお持ちなのですか」と尋ねました。すると、ルーズベルト大統領は一冊の本を見せて、日本に対する好意を持つようになったきっかけを話してくれたのです。それは、英訳の『忠臣蔵』でした。また、政府特使として渡米していた金子堅太郎から薦められた新渡戸稲造の『武士道』に感銘を受けていたルーズベルト大統領は、日本海海戦の時も一日中、その戦況について注目しており、「私は興奮して自分の身は全く日本人と化して、公務を処理することもできず、終日、海戦の話ばかりをしていた」と回顧するほどだったのです。
しかし、ルーズベルト大統領の日本に対する格別な好意とは裏腹に、日露両国間での講和会議はいくつかの条件を巡って難航します。それは、ロシアが「たかだか小さな戦闘において破れただけであり、ロシアは負けていない。まだまだ継戦も辞さない」と強硬姿勢を貫いていたからです。また、ロシア皇帝ニコライ二世は、ロシア全権代表のウィッテに対して「1ピャージの土地も、1ルーブルの金も日本に与えてはならない」と厳命を下していました。そのため、ウィッテ全権はポーツマス到着後もまるで戦勝国代表であるかのように振る舞い、小村全権が憤然として「貴殿はあたかも勝者の如くものを言う」と詰め寄るほどだったのです。それに対してもウィッテ全権は「ここには勝者もなければ、したがって敗者もいない」と、胸を張って応酬したというのです。
ところで、日本政府は奉天会戦に勝利した後に、講和条件のおおよその内容についてすでに決定していました。そして、12項目からなる講和条件を甲乙丙の優先順位をつけてそれぞれにまとめていたのです。その中で甲の絶対必要条件として提示していたのが以下の3項目でした。
1.ロシアは韓国(大韓帝国)における日本の政治上・軍事上及び経済上の利益を認め、日
本の優越権を認めること
2.ロシアが清国から租借していた旅順・大連を含む関東州(遼東半島の南端部)を日本に
譲渡すること
3.ロシアは南満洲鉄道(ハルピン~長春~奉天~大連~旅順)と付属地の炭鉱の租借権を
日本に譲渡すること
また、乙の比較的必要条件の中では、以下の2項目を重要項目としていました。
1.ロシアは樺太(サハリン島)及び付属諸島を日本へ譲渡すること
2.ロシアは日本が戦争遂行に要した実費を賠償金として支払うこと
日本側の講和条件の提示に対してロシア側は素早く回答し、甲の絶対必要条件についてはすんなりと同意しました。ところが、ロシア側は樺太の譲渡と賠償金の支払いについては最後まで頑強に拒否します。19世紀までの戦争では、戦勝国が敗戦国に対して領土の割譲と賠償金の支払いを要求するのは常識であり、日露戦争においてもこのような慣習は通用していたはずなのですが、ロシアは日本が要求する賠償金の支払いには頑なに応じようとはしなかったのです。
小村全権はロシアとの交渉がとても厳しいものになると当初から予測していました。そこで、日本政府としては賠償金の要求と樺太の譲渡については、講和の絶対的な条件とはせず、最終的にはこれらの条件が認められなくても講和の成立を優先すべきことを確認し合っていたのです。それでも、小村全権が賠償金の支払いと樺太の譲渡にこだわったのは、国民世論を気にかけていたからでした。国民の多くが戦勝国となった日本は、当然の帰結として樺太を日本領とし、多額の賠償金を手にすることができると思っていたからです。
ところが、そのような日本側の態度をロシア側は巧みに利用します。ポーツマスには世界中から数百人の新聞・通信記者が集まっており、報道合戦を繰り広げていました。そこで、ロシア全権のウィッテは日本側との交渉内容を逐一洩らし続け、特に影響力の大きい通信社に対して、日本は賠償金欲しさに交渉を遅らせていると訴え続けたのです。やがて、「日本は賠償金目当てに戦争をしたのか」という世論が、米国内のみならず、世界各国に形成されていくようになりました。
ここには明らかに日本側の報道戦略のずさんさと情報操作を軽視する態度がありました。小村全権の新聞嫌いは有名で、日本の新聞だけでなく、外国メディアに対しても取材に応じることはありませんでした。日本側は箝口令(かんこうれい)を敷いて交渉内容がいっさい漏れることがないようにしたのです。ある外国の新聞記者にコメントを求められた際、小村全権は「我々はポーツマスへ新聞の種をつくるために来たのではない。談判するために来たのである」とそっけなく答え、記者たちの不評を買っていました。
米国の政治は時に世論で動きます。ウィッテ全権の巧妙なメディア工作により、日本に対する厳しい世論が形成され始めると、さすがにそれまでは日本びいきであったルーズベルト大統領も講和の成立に対して危機感を抱き始めます。そこで、ルーズベルト大統領は金子堅太郎に手紙を送り、日本が一切の金銭的要求を取り下げるよう勧告したのです。講和会議での深刻な対立を知った日本政府は、小村全権に対して賠償金と樺太の譲渡を放棄してでも講和を結ぶよう指示しますが、これは天皇によって裁可された方針でもありました。この電報を受け取った日本の外交団は、悔しさのあまり嗚咽(おえつ)したと言われていますが、日本政府は何としてでも講和を実現しなければならなかったのです。
小村全権以下日本の外交団は、涙ながらに政府からの最終決定案を了解し、最終会議に臨むことになりました。ところが、最後の最後になって、ロシア側の譲歩案が同盟国イギリスから伝達されます。それは、ニコライ二世が「樺太の南半分なら日本に譲渡する気がないでもない」と語ったというものでした。8月29日午前10時から始まった第10回本会議において、日本は賠償金の放棄を表明し、ロシアは北緯50度以南の樺太を日本に譲渡することで合意しました。ここに日露両国間の講和は事実上、成立することになったのです。
会議場から別室に戻ったウィッテ全権は「平和だ、日本は全部譲歩した」と囁(ささや)き、随員と抱擁を交わし、喜びを爆発させたと言われています。のちにウィッテ全権は「こうなろうとは夢にも思わなかった。われわれは一文も払わないで、樺太の北半を得た。外交的大勝利を博したのである」と回想するほどでした。日本が最終的に賠償金を放棄して講和を結んだことは、日本以外の各国には好意的に受け止められました。欧米の新聞では日本が「人道国家」であることが称賛され、「平和を愛するがゆえに成された英断」であるとして喝采を送ったメディアも少なくなかったのです。
以上のような曲折を経て、1905年9月5日午後3時47分、ポーツマス海軍工廠(こうしょう)内で日露講和条約が正式に調印されました。そして、日本は賠償金を放棄したとはいえ、日露戦争の最大の目的を完全に達成することができたのです。それは、日本による韓国の単独支配をロシアに認めさせたこと、三国干渉で清国に返還した遼東半島を取り戻したこと、さらには満洲からロシア軍を撤退させ、南満洲鉄道の権益を獲得したことです。とりわけても、日本の韓国に対する支配権を認めさせることは、日本が日露戦争で得たいと願っていた最大の戦果でした。
日本は開戦前、たとえ満洲の支配権をロシアに譲ったとしても、韓国に対する支配権だけは承認してほしいと要求していました。これが、伊藤博文が主唱していた「満韓交換論」でした。しかし、ロシアがこの提案を受け入れなかったために、日本は日英同盟を締結し、ロシアに宣戦布告することになったのです。このような開戦に至るまでの経緯を振り返ってみれば、日本はロシアの満洲併呑(へいどん)を阻止し、韓国の安全を死守し、極東の平和を擁護するという、日露開戦の真の目的だけは完遂したということができるのです。