2025年10月19日日曜日

第72回:大東亜戦争の真実(22)

 日露戦争における最大の戦果は、韓国に対する日本の支配権を確立したことでした。また、満洲からロシア軍を撤退させ、さらに南満洲鉄道の権益を獲得したことにより、日露戦争の主目的はほぼ達成できたのです。しかし、日本はロシアに対する賠償金は放棄しました。それはロシア側が頑強に賠償金の支払いについては拒否し続けたからです。ロシアはいつでも戦争を継続できるという強硬姿勢を崩すことなく、必ずしも講和を望んでいないという立場を見せつけていたのです。

 しかし、日本の軍事的・財政的状況は、もはや戦争を継続するのは不可能なほどに疲弊していました。奉天会戦の勝利の後、満洲軍に対する武器・弾薬の補給は途絶えており、砲弾の増産も間に合わないような状況でした。さらに、日本軍の人的消耗は激しく、特に専門的教育を要する下級将校が多く戦死し、継戦能力は限界点に達していました。にもかかわらず、なおも戦争継続となれば、国民は重税に苦しめられ、戦費調達のための外債の発行は後世に過度の負担をかけることになります。軍部や政府首脳は日本の現状を実によく把握していたのです。また、明治天皇御自身は何よりも国の行く末に心を砕いておられました。そこで、日本側としてはひたすら講和の機会をうかがう他に道がなかったのです。

 ただ、このような日本の軍事的・財政的な状況は国民には知らされていませんでした。なぜなら、もし戦争継続が軍事的にも財政的にも日本の負荷を越えていることを公に発表すれば、ロシアに付け入る隙を与えてしまうことになるからです。ロシアの戦争継続派が発言力を強めて、戦争の長期化につながるようになれば、講和の成立が頓挫してしまうのは明らかでした。そこで、日本政府は軍事的・財政的状況について、あえて国民には伝えなかったのです。

 全権大使に任命された小村外相は講和会議に臨むにあたり、国内外の複雑な事情をすべて分かっていました。1905年7月8日、小村全権らは渡米のため新橋を出発しましたが、その時、新橋駅には大勢の国民が詰めかけて、「万歳」の大歓声をもって小村全権を盛大に見送りました。しかし、この時、小村全権は桂首相に対して「新橋駅頭の人気は、帰る時はまるで反対になっているでしょう」と呟(つぶや)いた、と伝えられています。また、井上馨も小村全権に対して涙を流しつつ、「君は実に気の毒な境遇に立った。今までの名誉も今度で台無しになるかもしれない」と語りかけ、慰めていたのです。連戦連勝を伝える報道により日本軍の軍事的成果ばかりに目を奪われていた国民には、講和会議に出発した小村全権らの悲痛な決意や、彼らを送り出した政府首脳の苦悩などは全く思いもよらないことであり、到底知り得ないことだったのです。全権代表である小村外相らがこのような大きなジレンマを抱えて、講和会議に臨んだという事実は決して忘れられてはなりません。

 当初予想した通り、ポーツマスでの講和会議はいくつかの条件を巡って紛糾します。結果的には、日本が賠償金を放棄し、ロシアが樺太の北緯50度以南を日本に譲渡することで、日露両国は同意しました。しかし、この妥協は日本側の敗北でもあったのです。講和会議最終日の8月29日にウィッテ全権は小村全権に対して最終回答を提出します。それは、「12億円で樺太北半を還付するという条項は拒否する。樺太南部を日本に割譲する」というものでした。この時の内幕をウィッテ全権は自身の回想録の中で、次のように記しています。

 「もし、この時、小村がこんな馬鹿げた提案に同意できるかと、席をけって立ったら、待たれよとその腕にすがって引き留めようと思っていた。日本政府は大負けに負けて償金は放棄しても樺太全部はよこすがいい、と出てくるのではないか、内心では不安と恐れで、前夜も眠れなかった。」

 ところが、この提案に対して、小村全権はその文書を凝視することおよそ5分間、長い沈黙と緊張を破って口を開き、「ロシアが償金を支払わずに樺太の南部を日本に割譲するという提案に対し、日本政府は平和の克復を切望し、講和談判を円満に結了する趣旨をもって同意を表する」と答えたのです。小村全権の受諾宣言はロシア側を驚かせました。ウィッテ全権は信じられないという表情で、隣室に駆け込んだと言われています。まさに、講和条約の同意はウィッテ全権の外交的勝利となったのです。「ニューヨーク・タイムズ」は次のように論評しました。

 「当地にいる評論家ら-ロシアびいきであれ、日本びいきであれ-はこの条約の勝利を外交史上での驚くべきことと見ている。各戦闘で惨めなほどに敗北を喫し、その海軍は撃滅された国家が、その勝者に対して休戦条件を押し付けた。」

 このように、日本はロシア側の外交的勝利となるような講和条件を承諾し、講和条約に正式調印したのですが、それは、日本がどこまでも平和の回復を希求していたからでした。日本の戦争目的は金銭(賠償金)や領土の獲得などではなく、どこまでも欧米列強による植民地支配から東アジアを解放することにあったからです。日本が国外に勢力を拡大するために日清戦争で朝鮮半島を支配し、日露戦争では満洲を新たな勢力圏とするために支那大陸への侵略を始めたというのは、後世の歴史家による歴史の歪曲であり、捏造でしかないのです。

 ところで、当時の日本国内の反応はどうだったのでしょうか。ポーツマス講和条約が調印されると、日本の各新聞は一斉に「屈辱条約」であるとして非難を始めました。また、日本国民はロシアに連戦連勝したにもかかわらず、どうして賠償金を放棄しなければならなかったのかと憤激しました。講和条約を好意的に受け入れたのは徳富蘇峰(とくとみそほう)が主宰する『国民新聞』だけでした。講和条約締結の日、東京の日比谷公園では小村外交を弾劾(だんがい)する国民集会が開かれました。ところが、これを禁止しようとした警官隊と民衆が衝突するという事態が起こり、やがて数万の民衆は暴徒化して、国民新聞社や交番が焼き打ちされるなどの暴動へと発展しました。これが「日比谷焼打事件」と呼ばれているものです。民衆の怒りは講和を仲介した米国にも向けられ、東京の米国公使館や、米国人牧師が働くキリスト教会までも襲撃の対象になりました。政府は翌日、東京に戒厳令を布告し、軍隊を出動させることで暴動は鎮圧されましたが、戦争による人的損害と生活苦にあえぐ庶民の不満は全国に波及するまでになったのです。この暴動事件における死者は17名、負傷者は500名以上、検挙者は2000名以上にのぼりました。

 講和条約調印の後、過度の疲労のためか小村全権は腸チフスを発症し、医師の診断により絶対安静を命じられます。そして、心身ともに疲弊した小村全権がようやく帰国できたのは10月16日のことでした。小村全権が横浜港に上陸すると、横浜市民は来舶中の英国艦隊歓迎のために掲げていた国旗をすべて降ろしてしまいます。新橋駅では、群衆の中から「速やかに切腹せよ」との声や、「日本に帰るよりロシアへ帰れ」との罵声が浴びせられました。渡米に際して小村全権が桂首相に呟いた「新橋駅頭の人気は、帰る時はまるで反対になっているでしょう」との言葉は、まさに現実のものとなったのです。乗降場に降り立った小村全権を桂太郎首相と山本権兵衛海相が左右から抱きかかえ、寄り添うようにして歩いたと伝えられていますが、それは襲撃しようとする者から小村全権の命を守るためでした。

 日比谷焼打事件に象徴されるように、日本国民は日露戦争における戦勝報道にのみ目を奪われて、日本政府の厳しい財政事情や、満洲軍の戦力の消耗などには心を向けることがありませんでした。例えば、『善の研究』で有名な西田幾多郎のような知識人でさえ、講和条約の締結について憤懣(ふんまん)やる方ない思いを書き綴っていました。条約調印前の8月31日の日記には「講和条件を見るに大屈辱なり。償金とれず樺太も半部ゆずり、鉄道も長春とはナサケナキことなり。吁々(ああ)万事休す」と書かれていたのです。

 しかし、国民の多くが真実を知らされなかったのは、政府による隠蔽工作によるものでもなければ、マスコミが意図して偏向報道をしたからでもありません。政府は日本の軍事的・財政的状況をロシアに知られるわけにはいかなかったのであり、敵国に対しては苦しい台所事情を秘匿(ひとく)しておく必要があったのです。また、新聞各社もわざと国益を損うような偏向報道をすることはなく、また、自社の利益のみを追求して不都合な真実を覆い隠すこともありませんでした。日本政府は「敵を欺(あざむ)くためにまず味方である国民を欺く」という苦渋の選択を余儀なくされていたのです。

 現代の日本において政府は国益のためではなく、自らの利権や自己保身のために国民を欺こうとします。また、報道機関は故意に国民を誘導し、時には洗脳し、偏向報道によって国益を損ねるようなことを平気で行っています。それでは、現代の政府や報道機関の姿勢と日露戦争当時の政府や報道機関の姿勢との差異はどこにあるのでしょうか。それは、一言で言えば、愛国心の有無にあると思います。日露戦争当時の日本政府は国益のためにあえて味方を欺き、国民に真実を秘匿してまでも国家国民を守ろうとしました。報道機関もまた国家国民のために大所高所から論陣を張り、忠君愛国の精神を基として社会の公器としての使命に殉じました。そして、国民一人一人も国を愛するがゆえに、生命を賭して国家のために生き、大義のために一身を捧げて生きようとしていたのです。これらすべては、祖国日本をこよなく愛する純粋な至情に基づくものでした。

 国を愛する心が国民の内から取り去られるなら、また、祖国のために生きようとする真心が失われてしまうなら、もはや国民にも国家にも生命は宿りません。なぜなら、愛こそが生命の基であり、愛国心に支えられてこそ国家は生存することができるからです。国を愛する心が見失われつつある今の時代にこそ、私たちは日露戦争の顛末(てんまつ)について真摯に学び直し、歴史の真実を生きた教訓としなければならないのです。