2025年12月14日日曜日

第78回:大東亜戦争の真実(27)

  韓国併合条約の締結による日本統治時代において、日本は韓国から七つのものを奪った(七奪)とされていますが、ここで「奪った」という表現は歴史的事実に照らせば、全くの誤りです。例えば、国家としての威信と独立の基礎となるもの、つまり、「国王」が奪われ、「主権」が奪われたと言いますが、これは真実とはかなり食い違っています。なぜなら、「国王」は奪われたのではなく、韓国併合条約に基づいて退位したのであり、その結果として王朝に終止符が打たれたのです。また、退位した李王家は、その後に華族・准皇族に列せられ、王家自体は存続しています。さらに、「主権」も奪われたのではありません。韓国併合条約に従って日本に移譲されたのであり、条約の締結は朝鮮政府が望んだことでもありました。そして、日本による韓国併合は国際的にも歓迎されており、日本が主権を強圧的に奪ったというのは事実ではありません。日韓両国の間で正式に合意し、調印され発効した条約を履行して、日本は韓国を併合したのですから、日本が韓国から「国王」を奪い、「主権」を奪ったという歴史的評価は全くの的外れなのです。

 それでは、「国王」や「主権」を日本が奪ったということが、いかに的外れの主張であるかを検証してみましょう。まずは国王についてですが、韓国併合後に退位させられた国王とは、李朝最後の王である純宗(じゅんそう)のことです。ところが、実際には、日本は李朝に対して最大の敬意を払い、純宗には皇族に準ずる身分が与えられました。また、純宗の王位後継者である皇太子の李垠(りぎん:高宗の七男)は、日本の皇族の梨本宮方子(なしもとのみやまさこ)女王と結婚しました。

 ここで国王を奪われたという主張に対して一つの素朴な疑問があります。それは、なぜ、韓国も北朝鮮も大東亜戦争終結後に王朝を復興しなかったのかということです。どうして、奪われた国王を復位させなかったのでしょうか。王家の血統が絶え、王家の子孫がいなかったのであれば、王朝復興は不可能ですが、実際には、李垠殿下は存命していました。日本統治が終わり、独立を回復したのに、また、王家が断絶したわけでもないのに、なぜ、王朝は復興されなかったのでしょうか。それは、韓国には王朝を復興させ、国王を復位させる意思がなかったからです。日本が韓国の国王を奪ったのではありませんし、王家の血筋を断絶させたのでもありません。独立を回復した韓国が自らの意思として王朝の復興を拒否したのです。

 大東亜戦争終結後に李垠殿下は韓国に帰国しようとしますが、李承晩(りしょうばん)大統領によって帰国を拒否され、李垠殿下と梨本宮方子女王が韓国に帰国できたのは、終戦から18年を経た1963年でした。このような歴史的な経緯を考えれば、韓国が王家に対してどのような感情を抱いていたのかが分かります。韓国には国王を復位させるつもりはなく、むしろ自主的に国王を廃位させていたのです。李朝の王家に対して敬意を払ったのは日本であり、その一方で王家の帰国を拒んだのは韓国の初代大統領だったのです。にもかかわらず、日本が国王を奪ったと韓国が主張するのは、歴史の捏造であり、改竄(かいざん)以外の何ものでもありません。

 次に、主権が奪われたというのも真実ではありません。主権は韓国併合条約に従って日本に正式に移譲されたのであり、奪われたという主張は正しくありません。さらに言えば、そもそも韓国には主権などというものは初めからなかったのです。なぜなら、歴代の朝鮮国王は清の皇帝によって任命されており、朝鮮は清国への絶対服従を強いられた属国そのものだったからです。しかも、国王の地位は清の廷臣(ていしん)よりも下位でした。その証拠に、漢城には「迎恩門(げいおんもん)」という門があり、清から使者が遣わされると、朝鮮国王は迎恩門に出向いて「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」をもって迎えなければならなかったのです。三跪九叩頭とは、清朝の皇帝に対する臣下の礼であり、絶対服従を示す最敬礼でしたが、実際には世界で最も屈辱的な礼と言われていました。それでは、三跪九叩頭の礼とはどのようなものだったのでしょうか。

 まずは、清の使者の跪(ひざまず)けの号令で、朝鮮国王は地面に土下座します。そして、以下の所作を3回繰り返すことになります。
 一、一叩頭の号令で手を地面につけ、額を地面に叩きつける
 二、二叩頭の号令で手を地面につけ、額を地面に叩きつける
 三、三叩頭の号令で手を地面につけ、額を地面に叩きつける
 四、起の号令で起立する

 これらの所作を3回繰り返すので、合計9回手を地面につけ、額を地面に打ちつけることになります。そこで、「三跪九叩頭の礼」と名付けられました。しかも、額を打ち付ける地面にはあらかじめ石が置かれており、その石に頭を叩きつけて血がにじむまで行わなければならなかったのです。血がにじむほどでなければ誠意を示したことにはならないと考えられていたからです。そして、この儀式を行うために建てられた門が「迎恩門」でした。つまり、朝鮮は清国に絶対服従しなければならない属国であり、朝鮮にはもともと主権などなかったのです。

 ところが、属国である朝鮮を清国から解放し、独立自主の国にさせようとする国が現れました。それが日本でした。日本は清国の属国に成り下がっていた朝鮮を解放するために日清戦争を戦い、その勝利の後に締結された下関条約において、朝鮮が完全なる独立自主の国であることを清国に認めさせたのです。下関条約の第一条には次のように規定されています。

 「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認する。よって独立自主を損害する、朝鮮国から清国に対して貢物の献上や儀礼などは将来すべて廃止すること」

 ここではっきりと分かることは、朝鮮を独立自主の国とし、長きにわたる清国の属国の立場から解放したのは、日本であったという事実です。そして、清国の属国として屈辱的な儀式を強いられていた「迎恩門」は破壊され、清からの独立を祝うために新たに「独立門」が建てられたのです。ところが、現代の韓国ではこの史実がまったく教えられていないため、ほとんどの韓国人は独立門が日本からの独立を記念して建てられたものであると誤解しているのです。独立門には1896年建立との刻印があるにもかかわらずです。何とも不可思議な現象ではありませんか。清国の属国であった朝鮮を救い出し、独立自主の国としたのは日本であり、三跪九叩頭の礼という屈辱的な儀式から朝鮮国王を救ったのは日本だったのです。その日本がどうして、朝鮮から主権を奪った侵略国家として非難されなければならないのでしょうか。歴史の真実とは全く正反対の捏造された歴史が語られ続け、教え続けられていることは、日本人にとってのみならず、韓国人にとっても大いなる悲劇と言わなければならないのです。

 日本は韓国から国王を奪ったという事実はなく、また、韓国から主権を奪ったという事実もありません。国王に対して韓国人よりも敬意を払い、その身分を守ろうとしたのは日本人だったのであり、属国である朝鮮を独立自主国家にするため血を流して清国と戦い、朝鮮に主権を与えようとしたのは、まぎれもなく日本人だったのです。この歴史の真実こそが日本や韓国のみならず、世界のすべての人々に明らかにされなければならないのです。

 最後に、余談ではありますが、清国皇帝に謁見する際に三跪九叩頭の礼を初めて拒否し、中華帝国の冊封体制を歴史上初めて打ち壊した人物がいたことを紹介しておきたいと思います。その人物は副島種臣(そえじまたねおみ)でした。副島種臣は1873年に特命全権大使として清国に派遣されますが、この時、清国の第10代皇帝の同治帝(どうちてい)に謁見する際に、三跪九叩頭の礼を求められます。ところが、この時に副島種臣は次のような主張をもって清国の官吏たちを論破しました。

 最初に、副島は自分が特命全権大使として対等な立場で国家間の交渉をするために派遣されたことを伝えます。また、日本は清国の属国ではないので、皇帝謁見の際に慣例となっている跪礼(きれい)をする必要はなく、あくまでも立礼(りつれい)をもって謁見すると主張しました。さらに、中国古典の『尚書(しょうしょ:中国古代の歴史書『書経』の古名)』を持ち出して、この書によれば外国からの客人に対しては恭敬(きょうけい)の態度で迎えるべきと記されていると訴え、清国の官吏は先祖たちが示した法道を無視するのかと反論したのです。

 中国の古典にまで言及した副島の主張に対して、清国の官吏は言葉を失ったと言われています。そして、清国の要求に対して一歩も引くことなく正論を説いた副島種臣は、欧米の外交団をも巻き込んで粘り強く交渉し、1か月半の時間をかけて、とうとう清国を説き伏せてしまったのです。こうして、1873年6月29日、副島種臣は欧米の外交団と共に歴史上初めて、清国皇帝に立礼をもって謁見することができました。

 それでは、なぜ、副島種臣は清国に対して決してひるむことなく、国家の名誉と誇りを懸けて、三跪九叩頭の礼という屈辱的な儀式を拒み続けることができたのでしょうか。また、日本人である副島種臣だけが欧米諸国をも悩ませていた悪習を打破するという近代外交史の快挙を成し遂げることができたのは、いかなる理由によるのでしょうか。それは、何よりも明治天皇から賜わった厚い信任があったからです。冊封体制のもとにある世界で最も屈辱的な儀礼を打ち砕くことができたのは、明治天皇の大御心と御稜威(みいつ)によるものであったのです。明治天皇の御神徳が世界の悪弊を打ち壊し、冊封体制の悪しき慣習を取り除く大きな力となったことを、私たち日本人は決して忘れてはならないのです。