1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」(韓国併合条約)の締結により、大韓帝国は大日本帝国に併合され、朝鮮総督府の統治下に置かれることになりました。そして、日本による韓国併合は、同盟国の英国をはじめ、米国、フランス、ドイツ、ロシア、そして、清国などの世界の主要国から承認されていたのです。当時の国際情勢においては、欧米列強諸国から承認されることには非常に重い意味がありました。少なくとも、日本が韓国を併合したことは国際的には認可されていたのであり、そこには国際法を逸脱した侵略的要因は皆無だったのです。
それでは、日本統治時代に朝鮮総督府が実施した統治政策とはどのようなものだったのでしょうか。多くの日本人は何ら疑うこともなく日本は悲惨な植民地支配をしてきたのだと教え込まされてきました。日本は韓国から「七つのものを奪った」(七奪・しちだつ:①主権②国王③人命④国語⑤姓氏⑥土地⑦資源)という捏造された歴史を信じ込んでいる人も少なくないのです。しかし、歴史の真実はその真逆でした。日本は韓国から何かを奪ったのではなく、むしろ多くのものを韓国に与えていたのです。
まず、日本が韓国に対して与えたものとして近代的学校教育制度の拡充があります。そして、戸籍制度を導入することによりすべての人に姓を与え、それまでの身分制度を廃止したのです。第二次日韓協約締結の後、韓国統監府初代統監となった伊藤博文は韓国の教育状況について、「あなたがたは一体何をしてきたのか」と韓国の官僚たちを激しく叱責し、学校建設を最優先事項としました。それは、国家の近代化の基礎は教育された国民にあると考えていたからであり、その教育とは「読み、書き、算盤」を土台するものでした。
1906年当時、韓国には全国でわずか40校ほどの小学校しかありませんでした。そこで、韓国併合後の1911年に、朝鮮総督府は第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目として朝鮮人の識字率の向上に取り組みます。伊藤博文によって推進された学校建設計画は併合後も受け継がれ、1943年には4271校の小学校が全国各地に建設されます。そして、識字率は1910年の6%から1944年には約60%になっていたのです。
また、新たな戸籍制度を導入することにより韓国社会に根強く残っていた身分制度を事実上、廃止しました。李氏朝鮮時代の戸籍には身分も記載されており、奴婢(ぬひ)や白丁(はくてい)などの賤民(せんみん)には教育を受ける機会は与えられていませんでした。しかし、日本が導入した戸籍制度により、賤民も姓を名乗ることができるようになり、身分を戸籍に記載する必要もなくなりました。そして、身分解放された賤民の子弟は学校に通えるようになったのです。ところが、この身分解放に執拗に反対した人たちがいました。それは、日本人ではなく、「両班」(やんばん:高麗・朝鮮時代の特権階級である貴族層のこと)と呼ばれる特権階級の人々だったのです。
朝鮮人に等しく教育機会を与えようとしたのは日本であり、固陋(ころう)とした身分制度を廃止し、すべての人を平等に扱おうとしたのは日本人でした。それに対して、一部の特権階級だけに独占されていた教育機会を決して他者には与えず、身分制度を守ることに固執していたのは一部の朝鮮人だったのです。特権階級の人々が教育機会を奪っていたのであり、両班こそが多くの人々の自由を奪っていたのです。ここにも与える日本と奪い続けていた韓国という対比が見られます。日本統治下で初等教育が普及したことにより、就学率は飛躍的に向上します。1910年には1%に過ぎなかった初等教育就学率は、1923年には11.2%に、そして、1943年には49%にまで上昇したのです。
また、1924年には京城帝国大学が設立されますが、これは日本では6番目の帝国大学となり、日本内地の大阪帝国大学(1931年)や名古屋帝国大学(1939年)よりも早く設立されたことになります。因みに、7番目の帝国大学は台湾の台北帝国大学(1928年)でした。さらに、京城帝国大学の図書館の予算は東京帝国大学のおよそ10倍もありました。とにかく日本政府は朝鮮統治において教育制度の充実に心血を注いだのです。日本統治時代に建設された学校は、小学校以外にも、専門学校が24校、中学校が75校、高等女学校が75校、実業学校が133校、実業補習学校が145校で、その上、教員を養成するための師範学校が22校も建設されているのです。朝鮮総督府は教員を養成してまで、朝鮮人の教育水準の向上を図り、持続可能な教育制度を確立しようとしたのです。
李氏朝鮮では一般人のための教育機関など存在せず、特に女子教育は皆無でした。従って、大多数の朝鮮人は読み書きができませんでした。しかも、李氏朝鮮は清国の属国だったので、漢字が重視され、すべての公文書は漢文で書かれていたのです。そこで、李朝末期において開化派の朝鮮人と日本人の井上角五郎(いのうえかくごろう)らによって、朝鮮で最初のハングル使用の新聞『漢城周報(かんじょうしゅうほう)』が発行されることになりました。李氏朝鮮の時代にハングル文字はほとんど使用されることがなく、両班からは「賤民が使う文字」とか、「劣等文字」として軽視されていました。そのようなハングルを使って新聞を発行し、多くの人が文字を読めるようにと普及させたのは、福沢諭吉やその弟子である井上角五郎などの日本人だったのです。
1910年から1945年までの日本統治時代に朝鮮の普通学校(小学校)では、ハングルが教科書に載り、ハングルと漢字の混用による朝鮮語が学校教育の中に導入されることで、朝鮮の子供たちにもハングルは普及していくことになりました。日本人がハングルを与えたのであり、両班たちはハングルを蔑視し続け、使わせないようにしたのです。日本人は朝鮮人から言葉(国語)を奪ったのではありません。むしろ、朝鮮人が失っていたハングルを探し出し、軽視されていた文字を学校で教えるようにし、朝鮮人が言葉を読むことができるようにハングルと漢字を混用した朝鮮語を与えようとしたのです。ここにも、与えようとした日本と奪おうとしていた韓国という構図がはっきりと見えるのです。