韓国の教科書に掲載されている『日帝七奪』という言葉がありますが、その中で最も悪名高き政策として非難されているのが「創氏改名」と呼ばれるものです。1939年(昭和14年)に朝鮮総督府により実施されたこの制度により、朝鮮人は姓名を奪われ、日本名を強制されたと批判されていますが、これは真っ赤な嘘です。韓国の教科書には「日本は私たちの姓や名も日本式に直して呼ばせ、わが民族の精神をなくそうとした」と記述されています。そして、日本の教科書にも「朝鮮では皇国民化の名のもとに、日本語の使用や朝鮮の姓名の〈あらわし方〉を日本式の使用に改めさせる創氏改名を推し進めました」という虚偽の内容が、平然と記載されているのです。
では、歴史の真実とはどのようなものだったのでしょうか。まず、1910年の日韓併合以降、一部の朝鮮人が日本風の姓名を希望し、届け出をするという事案が報告されました。それは、日本名を名乗る方がいろいろな面で有利であると考えられたからです。そこで、当時の朝鮮総督府は翌1911年11月1日に総督府令第124号「朝鮮人の姓名改称に関する件」を発して、日本風の紛らわしい姓名への改称を厳しく制限しました。それは、朝鮮の伝統風俗を尊重するという意味と共に、治安上の必要性があったからでした。つまり、日本人と朝鮮人を名前で区別できなくなると、治安上の取り締まりに支障が出たからです。そこで、姓名の改称については警務総長や各道警務部長の許可制としたのです。
ところが、厳しく制限されていたはずの日本名への改称が、1939年には一転して可能になりました。それはどうしてなのでしょうか。その理由は総督府による皇民化政策の強化でも、朝鮮民族の精神をなくすためでもありません。実は、朝鮮人が日本名を名乗ることを強く要望したからなのです。1920年代に入ると、多くの朝鮮人が新天地の開拓のために満洲へと移住するようになりました。ところが、当時の満洲では馬賊や匪賊(ひぞく)の横暴が絶えず、朝鮮人の移民に対する襲撃が頻発していたのです。それは、朝鮮人に対する侮蔑(ぶべつ)意識があったからです。そこで、朝鮮人は日本名を名乗ることにより、支那人や満洲人から侮蔑されることを回避し、馬賊や匪賊の被害から身を守ろうとしたのです。つまり、日本名に改称することで、差別されたり、侮蔑されたりすることを避けようとしたのです。
さらに、1931年には満洲の長春の北にある万宝山で水利権を巡った争いが起こり、多くの朝鮮人が支那人によって虐殺されました(万宝山事件)。この事件の発生後、朝鮮人からは一刻も早く日本名を与えて欲しいという切実な要望が、総督府に届けられるようになりました。さらに、日韓併合により、自分たちは法的には日本人となったのに、どうして日本式の姓名を名乗れないのかと抗議する声まで挙がり、日本名に改称できないことは朝鮮人に対する差別だと告発する者さえ現れたのです。
こうした状況の中で、治安上の問題から朝鮮人の改称に反対していた警務部と、朝鮮人も天皇陛下の臣民として平等であり、改称には賛成であるとする文部部の間で激しい議論となりましたが、その結果として生み出されたのが創氏改名制度だったのです。1939年に朝鮮総督府は制令19号および制令20号により、この制度を実施することにしました。
本籍地を朝鮮に有する日本臣民に対して、戸籍には「姓」と「本貫(ほんがん)」を残したまま、新たに世帯の「氏」を創設させ、また希望者には有料で「名」の変更を認めることにしたのです。ここで混同してはならないのが、「姓」と「氏」の違いについてです。まず、朝鮮人における「姓」は父を通じて始祖にまで遡る男系血統を表すもので、結婚しても姓は変わりません。つまり、韓国では結婚しても夫と妻は同姓にはなれないのです。それに対して「氏」は家族を表す名称であり、家族はみな同じ苗字を持つことになります。つまり、「創氏」とは「姓」しかなかった朝鮮人に家族名を新たに創り与えるというもので、戸籍には「姓」をそのまま残しておいたのですから、「姓名」を奪ったというのは明らかに嘘なのです。
そこで、総督府は「氏」の創設については、自主的な届け出制とし、その期間を1940年(昭和15年、皇紀2600年)の紀元節である2月11日から6カ月と決定しました。この設定期間中に各自治体役場の窓口に届出された「氏」はそのまま登録されることになります。このように本人の希望により自主的に登録された新しい「氏」を「設定創氏」と呼びます。この時に「伊藤」や「井上」などの日本風の氏を新設して届け出る者が大半であったことも付け加えておかなければなりません。そして、設定期間である6カ月の間に朝鮮の全戸の約80%が氏の届出を行い、設定創氏を行ったのです。
その一方で、日本名を必要としない人は特に登録の義務はなく、朝鮮式の「姓」がそのまま「氏」として適用されました。これを「法定創氏」と言います。約20%の朝鮮人が法定創氏を選択し、姓をそのまま家族名として登録することになりました。例えば、夫婦の場合、夫の姓が「金」であり、妻の姓が「朴」だと、法定創氏を選択すると、夫婦は共に「金」を苗字とすることになります。
では、「改名」とはどういうことなのでしょうか。改名は希望者が任意で申請するもので、比較的簡易な届出により朝鮮式の名を日本名に改名できました。朝鮮人の中には日本式の氏を設定創氏として登録した後に、日本式の苗字が名乗れて、下の名前が朝鮮式では意味がないとして、名前も変えさせてほしいという要望が多数あったのです。この要望に応えるために、裁判所に申請し、手数料を支払うことで名前を日本式に変えることを許可したのが、「改名」なのです。創氏と同時に改名までした者の割合はおよそ10%でした。
ここで私たちが確認しておかなければならないことは、朝鮮人が創氏改名することは、日本にとって何の益もなかったということです。むしろ、創氏改名によって得をしたのは朝鮮人なのです。そして、朝鮮人も天皇陛下の臣民とされること、つまり、創氏改名によって日本人と同じように家族名を与えられることは、皇恩(こうおん)とさえ思われていたのです。そのためか、朝鮮人の中にはこの皇恩を感じて、住民全員が日本名にすべきだとの運動が各地で起きるほどでした。また、町や村の議会では、「住民は全員日本名とする」ということを決議する事例さえあったのです。そして、日本名を名乗らない朝鮮人を非難する朝鮮人までも現れる始末でした。
そこで、朝鮮総督府は日本名への創氏改名を深く憂慮し、設定創氏の届出期間において、三度も創氏改名を強制してはならない旨の通達を発しているのです。例えば、1940年3月6日付の大阪朝日新聞には、「氏の創設は自由 強制と誤解するな 総督から注意を促す」との見出しで、次のような記事が掲載されています。
「南(次郎)総督は5日の局長会議で左のように関係各方面に注意した。氏創設のことに関して、ややもすれば誤解している向きもあるように聞くが、これは絶対に強制ではなく、『一視同仁(いっしどうじん)』の大御心から朝鮮同胞に内地人同様の氏創設の道を開かれたのであって、内鮮一体化の具現化であり、この点、一般にも誤解なきよう主旨の徹底を図ってほしい。」
また、韓国では創氏改名により日本名を名乗らない者は差別されたのであり、実質的には強制と何ら変わらない、と苦し紛れの主張をする者もいますが、これも事実とは全く違います。例えば、帝国陸軍には洪思翊(こうしよく)中将という朝鮮人の陸軍軍人がいますが、終戦時まで朝鮮名を法定創氏としており、日本風創氏をしていません。陸軍士官学校を卒業して帝国軍人になった朝鮮人の中にも、朝鮮名で通していた者が少なからずいたのです。もしも、設定創氏を行わず、朝鮮名で通すことで不当な差別を受けるというのであれば、それこそ皇軍とも言われた軍隊内部で朝鮮名をそのまま名乗り続けることなどできなかったはずです。
その他にも、朝鮮名をそのまま法定創氏とした著名人には、帝国軍人の最高の栄誉である金鵄(きんし)勲章を授与された金錫源(きんせきげん)陸軍大佐、満洲国建国に関わった白洪錫(はくこうしゃく)陸軍中佐、そして、満洲国軍の白善燁(はくぜんよう)陸軍中尉などがいます。また、世界的な舞踏家であった崔承喜(さいしょうき)、東京府4区から出馬し朝鮮名のまま衆議院の代議士として活躍した朴春琴(ぼくしゅんきん)、1936年に開催されたベルリン・オリンピックのマラソンで金メダルを獲得した孫基禎(そんきてい)なども朝鮮名のままでした。
2003年5月31日に麻生太郎・自民党政調会長(当時)は、東京大学での講演会で「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言したことがありました。韓国紙はこの発言を批判的に取り上げ、韓国政府が謝罪を求める談話を発表します。そして、麻生政調会長は発言内容について謝罪しました。この発言については自民党の総務会でも取り上げられ、野中広務(のなかひろむ)氏が麻生発言を批判しました。ところが、その場にいた奥野誠亮(おくのせいすけ)氏は、次のように反論し、野中氏を諫(いさ)めたと伝えられています。
「野中君、君は若いから知らないかもしれないが、麻生君の言うことは100%正解だよ。朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。判子をついたのは内務官僚、この私なんだ。」
「創氏改名」は朝鮮人からの要望に応える制度として始められたのであり、決して強制ではありませんでした。そして、創氏改名制度によって日本式の名前を名乗るか否かは、総督府が強制したのではなく、朝鮮人が自らの意思で選び、届け出たのです。つまり、朝鮮人は創氏改名を希望し、そして、自発的に受け入れたというのが歴史の真実なのです。その結果として、およそ80%の朝鮮人が日本名を選択したのは、当時の世界五大強国の一つであった日本の国民となることを望んだからであり、天皇陛下の臣民となることを希望したからなのです。