2026年4月26日日曜日

第87回:大東亜戦争の真実(33)

  日露戦争に勝利した後、日露戦争において日本に対して最も好意的で、日本の立場を擁護し、かつ支援してくれた米国との関係が急激に悪化していくという難局が待ち受けていました。その契機となったのは、「桂・ハリマン協定」の破棄にあったことはよく論じられることですが、しかし、その陰には米国のアジアに対する国家戦略、殊(こと)に満洲権益をめぐる明確な戦略があったことを見落としてはなりません。つまり、米国は欧州列強に遅れてアジアに進出することになりましたが、その遅れを取り戻すために米国は機会均等、門戸開放を唱えて支那大陸への進出をうかがっていたのです。1899年のジョン・ヘイ国務長官による門戸開放宣言はその表明であり、列強諸国に対して支那の門戸を平等に開放するよう求めたのです。この宣言には日本政府も賛意を示し、ロシアによる満洲進出を排除するという点において、日米の利益は一致していました。

 ところが、日露戦争の結果、この構図が変化し始めます。日本の満洲利権の獲得は、日本が米国に先んじて支那大陸に進出したことを意味していたからです。日露戦争終結の直前となる1905年8月29日に米国のセオドア・ルーズベルト大統領が記した書簡には次のような言葉が綴られていました。

 「私は従来日本びいきであったが、講和会議開催以来、日本びいきでなくなった。」

 米国は何故、それほどまでに支那大陸の権益に執着したのでしょうか。そして、日本に対して露骨なまでの敵対感情を抱くようになったのでしょうか。実は、その背景には、米国の建国歴史と、建国以来掲げられてきた「マニフェスト・デスティニー」という国家的な信念があったのです。「マニフェスト・デスティニー」とは「明白なる天命」と訳され、米国の西部開拓や領土拡張を神から与えられた使命として正当化する概念で、米国の領土拡張をキリスト教的な摂理観に基づく神の計画とみなす思想でした。

 北米大陸東岸で建国された米国は西進を続け、メキシコ戦争(1846-48)によりカルフォルニア、ネバダ、アリゾナ、ユタ、ニューメキシコなどの西部地域を編入し、さらに、1867年にはロシアからアラスカを購入します。そして、1890年の国勢調査で「フロンティアの消滅」を確認します。しかし、米国の西進は止まりません。西海岸の向こうの太平洋にフロンティアを見出した米国は、ミッドウェー諸島を獲得し、1898年にはハワイ諸島を併合します。また、米西戦争(べいせいせんそう・1898)ではプエルトリコ、グアム、フィリピンを獲得し、さらに翌年にはウェーク島、サモア諸島を領有、米国の西進の行き着く先はいよいよ支那大陸へと向けられていくのです。

 このような米国の西進に強い影響を与えた世界的な名著があります。それが、アルフレッド・マハンの『海上権力史論』です。マハンは米国の海軍大学で教鞭をとり、米国の海外膨張政策を推進する理論的指導者でした。そして、マハンが提唱する海軍戦略は、ルーズベルト大統領をはじめ米国政界に多大な影響を与えていたのです。マハンの熱烈な信奉者であるベバリッヂ上院議員は、1900年に米国議会で次のような演説をしています。

 「我々は、東洋における我々の機会を放棄しない。我々は神によって世界の文明を託されたわが民族の使命を遂行するにあたって我々の役目を放棄しない。・・・今後わが国最大の貿易はアジアと行われるに違いない。太平洋は我々の大洋である。・・・我々は余剰製品の消費者をどこに求めていくのであろうか? 地理がその問いに答えている。中国はわが国本来の消費者である。」

 「桂・ハリマン協定」が破棄された後も、米国の満洲権益を狙った戦略は継続されます。米国のノックス国務長官は支那大陸に対する門戸開放の足掛かりとして南満洲鉄道中立化構想を描いていました。そして、イギリス、フランス、ドイツ、さらにはロシアと清国に対しても巧妙な働きかけをし、満洲鉄道の中立化を実現しようと工作していたのです。ところが、日本と同盟関係にあるイギリスはもちろん、日露戦争で日本に敗れたロシアまでも米国の構想に反対します。そして、ロシアの同盟国であるフランスにも拒絶され、ノックスの満洲鉄道中立化構想は完全に挫折してしまうのです。

 支那大陸に既得権益を有する列強諸国(英・仏・独・露)にとって、門戸開放政策のような米国的な自由主義はむしろ邪魔なものでした。その結果、外交的には第二次日英同盟(1905年)、さらに日露協商(1907年)、日仏協商(1907年)の締結により満洲権益確保の布石を打った日本に対して、米国は実質的には敗退することになったのです。

 日露戦争の勝利により満洲権益を獲得し、支那大陸進出の足掛かりを得た日本の進路は、いみじくも米国西進の進路と交差することになりました。これが外交史で言うところの「死の十字架」であり、日米いずれかがその進路を変えない限り、両国の衝突は不可避なものとなったのです。米国にとって、当時の満洲は支那大陸に残された数少ない資本と商品の輸出市場でした。満洲鉄道中立化構想の挫折という米国の外交的敗北は、その後の対日政策を根本的に変える契機となり、その後、満洲権益をめぐる日米両国の進路は、いやおうなしに死の十字架を描くことになったのです。日露戦争までは穏やかだった日米関係には小さな荒波が立ち始めるようになり、ここに日米の対立はもはや避けられない状況に陥ってしまったのです。