2025年6月1日日曜日

第55回:フランシスコ教皇の大きな過ち

 4月21日、カトリック教会の最高指導者であるフランシスコ教皇が逝去されました。そして、5月8日(日本時間9日)に新たな教皇としてレオ14世が選出されました。カトリック教会は2000年にわたり、統一性と一貫性を維持しながら、世界中におよそ14億人の信者を擁するキリスト教最大の教派です。その最高指導者の立場である教皇の絶対的な地位と権威の源とは何なのでしょうか。それは、歴代の教皇が、聖ペテロ(初代教皇)の後継者という立場であり、さらにその権威がキリストの御言葉に基づいているということにあります。キリストはペテロに対して次のように語られました。

 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉(よみ)の力もそれに打ち勝つことはない。わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。
 (マタイによる福音書 16章 18-19節)

 キリストの御言葉を礎としてその地位と権威が与えられているのが、ローマ教皇の立場であることに鑑みるならば、フランシスコ教皇が在任中に行ってきた数々の事績は、果たしてキリストの御心に適うものだったのでしょうか。そこで、フランシスコ教皇が目指したもの、あるいは成そうとしたことについて、いくつか取り上げながら、それが本当にキリストの願いであり、さらには神の御心であったのかを検証してみたいと思います。

 まず、フランシスコ教皇が目指したことの代表的なものとして、虐げられた人や貧困にあえぐ人々に心を寄り添わせるということがありました。例えば、離婚者やLGBTの人たちに対しても寛容な態度を示し、ミサに与(あずか)ることのできる道を開きました。また、教会内で女性を登用することにも積極的であり、同性婚や人工妊娠中絶の問題についても一定の理解を示すなど、「開かれた教会」を目指すという偽善的な言葉で世界を混乱させました。

 さらに、無神論であり、信教の自由を認めない共産国家である中国に対しても妥協的立場を取り、司教の任命権をめぐっては中国共産党が任命した司教を認め、共産党政権に親近感を抱くような態度を世界に示したことで多くのカトリック教徒を失望させたりもしました。なぜなら、中国共産党政権との妥協の理由が、世界最大の人口を有する中国で多くの信徒を獲得したいという、極めて利己的な動機であったからです。中国共産党に迫害されている地下教会の信徒たちは見捨てられ、その反対に共産党に従う偽りの信徒たちを喜ばせるために、教皇は中国共産党の権威に膝を屈(かが)めたのです。

 また、移民政策についても、時代錯誤としか思えないような認識しか持ち合わせていませんでした。教会は弱者に寄り添い、貧しい者に寛容であるべきである、という決まり文句を繰り返すだけで、移民問題の本質を全く見ようとしませんでした。欧州各国が移民に門を閉ざし始めた時期には、イタリアを含めて欧州諸国を強く批判し、さらに、アメリカによる移民の強制送還については、それを最悪の事態であるとしてトランプ政権を強烈に非難したのです。しかし、バチカンが移民を受け入れ、門を開いたことなどありません。移民のためにバチカンが資産を投じ、移民のために教皇が言葉だけでなく、何らかの行動を起こしたことがあるのでしょうか。

 2016年2月18日、フランシスコ教皇は驚くべき発言をしました。それは、米国大統領選挙で共和党の指名獲得を目指していたドナルド・トランプ氏が唱えていた政策について語られた言葉です。教皇は訪問先のメキシコからローマに戻る機中で、記者団からトランプ氏の不法移民政策について問われ、「どこであれ壁を築くことしか考えず、橋を架けることを考えない人間はキリスト教徒ではない」と語ったのです。

 不法移民を強制送還せず、国境管理をおろそかにしておくことが、キリスト教徒のすべきことなのでしょうか。不法行為を罰してはならず、国境を守ってはならないと、聖書は教えているのでしょうか。トランプ氏は即座に、教皇の声明は「恥ずべきもの」であると反論し、「どんな指導者にも、宗教指導者であればなおさら、他の人間の宗教や信仰について疑義を呈する権利はない」と述べたのです。

 フランシスコ教皇の言葉とトランプ氏の言葉を聞いて率直に感じることは、どちらが宗教指導者なのか、という戸惑いです。宗教を熟知し、信仰の重要性を理解しているのは、フランシスコ教皇ではなく、トランプ氏であったことが明白になった象徴的なやり取りではないでしょうか。そして、さらにフランシスコ教皇の偽善をついた鋭い言葉をトランプ氏は投げかけました。「もしバチカンがIS(イスラム国)の攻撃を受けたら、教皇はドナルド・トランプが大統領だったらと祈らずにはいられないだろう」。

 初代教皇となった聖ペテロに対して、イエスは次のように語られたことがありました。

 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。
 (マタイによる福音書 16章 23節)

 ところが、イエスは十字架に架けられた後、墓からよみがえってペテロたち前に現れ、その時に天から聖霊が降(くだ)ることを約束されます。果たして、その約束の通り、五旬節の日に弟子たちが心を一つにして祈っていると、天から聖霊が降りました。弟子たちは喜びに溢れ、天からの力をまとって、力強く神の福音を語り始めたのです。そのことに驚いた長老や律法学者たちはペテロたちを呼び寄せ、尋問し、さらには厳しい警告を与えました。ところが、ペテロはその警告に対して次のように答えたのです。

 ペテロとヨハネとは、これに対して言った、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい。わたしたちとしては、自分の見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」。 (使徒行伝 4章 19-20節)

 フランシスコ教皇はイエスに「サタンよ、引き下がれ」と諫(いさ)められたペテロの後継者なのでしょうか。それとも、聖霊を受けた後に、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか、判断してもらいたい」と神の福音を証詞したペテロの後継者なのでしょうか。

 フランシスコ教皇の大いなる過ちとは、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことではないでしょうか。聖書の教えよりもこの世の知恵ばかりを重んじ、神の御心よりもこの世の人々の思いにのみ心を寄せているのではないでしょうか。その姿は、聖霊を受ける前のペテロに重なって見えるのです。フランシスコ教皇が行ってきたことに対して、キリストが「わたしの邪魔をする者だ」と戒められているように思えてならないのです。しかし、トランプ大統領はまったくその反対なのです。トランプ大統領は、「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか」といつも問いかけているのです。そして、「自分が見たこと聞いたことを、語らないわけにはいかない」と告白し続けているのです。

 このように全く正反対のことを思い、真逆のものを見ているからこそ、フランシスコ教皇にはトランプ大統領が「キリスト教徒ではない」と思えたのでしょう。そして、いつも神を見上げ、神の御心を行おうと思っているトランプ大統領には、聖ペテロの後継者であるべきフランシスコ教皇が「恥ずべきもの」のように見えたのではないでしょうか。トランプ大統領が教皇に向けられた言葉の中には、イエス・キリストの悲しみと嘆きが込められているように思えてならないのです。

 新たに選出された教皇レオ14世が米国出身であるということにも何らかの意味を感じることができます。新しい教皇は、今こそトランプ大統領と歩調を合わせて、真のキリスト精神をよみがえらさなければならないのです。世界に神の福音の御言葉を伝えなければならないのです。キリストの御声がバチカンには届いているでしょうか。

 「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。
 (マルコによる福音書 1章15節)。

 あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことである。
 今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
 (ガラテヤ人への手紙 1章 6-7,10節)