昭和20年(1945年)6月23日、この日は沖縄戦で第32軍を指揮した牛島満(うしじまみつる)大将が自決し、日本軍による組織的戦闘が終了した日とされています。この日を忘れないため、そして多くの戦没者を悼(いた)むため、6月23日は「沖縄慰霊の日」と定められました。慰霊の日は広島、長崎の「原爆の日」(8月6日、8月9日)や「終戦の日」(8月15日)と共に、上皇陛下が日本人としてどうしても記憶しておかなければならない「4つの日」として、慰霊を尽くされてきた特別な日なのです。
最後の激戦地となった沖縄県糸満市(いとまんし)摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」が営まれますが、天皇、皇后両陛下をはじめ皇室の方々も、この日には黙祷され、亡くなった方々への哀悼の誠を捧げられます。
今年は大東亜戦争終結から80年となる節目の年であり、天皇、皇后両陛下は慰霊の日に先立つ6月4日に平和祈念公園内の国立沖縄戦戦没墓苑を訪ねられ、供花(くげ)されました。また、翌5日には米国の潜水艦に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の慰霊碑にも供花され、遺族の方々とも言葉を交わされました。節目の年となる今年は、両陛下にとっても戦没者を慰霊するための特別な一年となっているのです。
沖縄慰霊の日を迎えるに際して、私たちは80年前の沖縄戦の真実を改めて見つめ直さなければなりません。なぜなら、沖縄戦の真実がいまだに隠蔽(いんぺい)されているからであり、多くの日本人が真実をあえて追求しようとしないからであり、さらには左翼文化人や言論人の悪意によって真実が覆い隠されているからです。何よりも残念なことは、沖縄県内において沖縄戦をめぐる偏向と捏造(ねつぞう)がどこよりも蔓延し、どこよりも根強く残存しているということです。
そこで、沖縄戦の真実について、概説しておきたいと思います。昭和20年3月28日、米軍は那覇市の西方約40㎞にある慶良間諸島(けらましょとう)に上陸し、この日から、大東亜戦争での唯一の本土決戦となった「沖縄戦」が始まります。圧倒的兵力の米軍は、4月1日には沖縄本島に上陸し、約3カ月にわたって続く壮絶な沖縄地上戦が繰り広げられます。
日本軍は総力を傾注して激しく抵抗します。沖縄守備のため、県内外の将兵により第32軍が編成され、軍司令官には牛島満大将が着任しました。さらに内地からは陸海軍あわせて約2000機の特攻機が飛び立ち、日本中の若者たちが沖縄防衛のために尊い生命を捧げました。また、戦艦大和を旗艦とする海上特攻作戦が敢行(かんこう)され、おびただしい兵士が沖縄を守るために散華(さんげ)されたのです。沖縄は捨て石などではなく、どこまでも神聖な日本の領土でした。だからこそ、特攻作戦を敢行してまで多くの若者がその尊い命を沖縄防衛のために捧げたのです。
沖縄県内においても、義勇隊や中等学校生らによる鉄血勤皇隊*)が組織され、奮闘の限りを尽くします。また、沖縄県の女子学徒隊として組織されたひめゆり部隊でも多くの女子学徒がその命を散らし、祖国のために殉じたのです。沖縄の苦難の歴史を深く偲びつつ、二度とこのような惨禍を被(こうむ)ることがないように、歴史の教訓として沖縄戦を語り継ぐことはとても大切なことなのですが、その歴史が真実を歪めたものであり、捏造や虚偽であったとしたならば、これほど不幸なことはないのです。
それは、今を生きる私たちにとって不幸なことなのではなく、あの時代に生き、散華された全戦没者の方々にとっての不幸であることを、私たち日本人は忘れてはならないのです。慰霊の日に臨む私たちが心を寄り添わせなければならないのは、亡くなられた戦没者の方々が抱かれた思いに対してであり、私たちは謙虚に戦没者の方々の静かな真実の声に耳を傾けなければならないのです。歴史の真実に向き合うということは、その時代に生きた人々の心に寄り添うことだからです。
凄絶(せいぜつ)な沖縄戦を生き抜いた方々の真実の声がかき消されてはならないと思います。そこで座間味島(ざまみじま)での出来事を伝えるある真実について紹介しておきたいと思います。米軍上陸前夜に交わされた日本軍の隊長と村役場の方との会話についてです。宮里盛秀助役が梅澤裕海上挺身隊第一戦隊隊長に次のように告げ、自決用の武器弾薬をいただきたいと申し込みました。
「もういよいよ明日は米軍の上陸だと思います。間違いなく上陸ですから、私たち住民は生き残ってしまって鬼畜米英によって獣のように扱われ、最後に男も女も殺されるでしょう。同じ死ぬくらいなら、日本人によって死んだほうがよい。」
そこで、梅澤隊長は村の幹部らの固い決意を翻(ひるがえ)そうと厳しい言葉で次のように教え諭したのです。
「何を言うか。戦うための武器もないのに、あなたがたを自決させるような武器など全くありません。俺の言うことが聞けないのか。よく聞け。われわれは国土を守り、国民の生命財産を守るための軍隊であって、住民を自決させるためにここへ来たのではない。自決するな。武器弾薬や毒薬など渡すことはできない。われわれはあなた方に頼まれても自決させるような命令を持っていない。あなた方は畏れ多くも天皇陛下の赤子(せきし)である。俺はそうした命令は絶対出さない。何で命を粗末にするんだ。早く村民を解散しなさい。夜が明ければ、米軍の艦砲射撃が激しくなり、民間人の犠牲が出る。今のうちに食料のある者は食料を持って山の方へ退避させなさい。」
この梅澤隊長の「自決するな」という命令のゆえに、多くの村民は生き残ることができました。そして、生き残った人々の手によって村は復興したのであり、真相は、報道されていることとは全く逆だったのです。
摩文仁の丘に心静かに立ち、そこに眠る戦没者の方々の声に耳を澄ませる時、私たちの心に響く声とはどのようなものでしょうか。摩文仁の丘に建てられた平和の礎(いしじ)に刻印された戦没者の方々は「日本軍は私たちを守ってくれなかった」と訴えていますか。「沖縄は捨て石にされた」と嘆いているのでしょうか。沖縄戦で尊い命を捧げ散華された兵士たちは「私たちは無駄死にさせられたのであり、無理矢理に死地に駆り出された」と怒りの声を上げ、苦しみ喘(あえ)いでいるのでしょうか。摩文仁の丘に建てられた慰霊碑や石碑は何も語らないように思えますが、実は、声なき声で私たちの心に真実を訴えかけているのではないでしょうか。
沖縄戦の真実が知られることを恐れ、歴史の真実をひた隠しにしたい人たちが、戦没者の名を借りて、偏向と捏造に彩られた沖縄戦の虚構を言いふらしてきたのです。「軍隊は住民を守らない」という偽りの言葉を戦没者に語らせ、「沖縄は捨て石にされた」という真っ赤な嘘を戦没者の声とすることで、戦没者の方々がどれほど傷つけられ、苦しめられ、嘘偽りの言葉でどれほどの汚名を着せられていることでしょう。
このような虚偽がまかり通り、戦後80年を迎えても、戦没者の真実の声は踏みにじられ続け、一部の左翼文化人や言論人によって戦没者の声が捏造され、悪用され続けている現実こそ、戦没者に対する最も忌むべき冒瀆(ぼうとく)なのです。沖縄戦の真実を語ることだけが、真の慰霊となるのであり、沖縄戦に関するありとあらゆる虚構を暴き、偏向と捏造の歴史教育を終わらせることによってのみ、全戦没者の魂は救われるのです。
全戦没者の名誉を回復させ、彼らの気高くも美しい精神を蘇らせることこそ、慰霊の日を迎えるに際して、私たちがすることのできる精一杯の誠なのではないでしょうか。摩文仁の丘から真実の声が蘇り、日本人が心静かにその声に耳を傾けること、そして、戦没者一人一人の人生の輝きが今を生きる私たち一人一人の心の中に記憶され続けることこそが、真の慰霊なのです。
ヨシュアはまた言った、「それならば、あなたがたのうちにある、異なる神々を除き去り、イスラエルの神、主に、心を傾けなさい」。民はヨシュアに言った、「われわれの神、主に、われわれは仕え、その声に聞きしたがいます」。こうしてヨシュアは、その日、民と契約をむすび、シケムにおいて、定めと、おきてを、彼らのために設けた。ヨシュアはこれらの言葉を神の律法の書にしるし、大きな石を取って、その所で、主の聖所にあるかしの木の下にそれを立て、ヨシュアは、すべての民に言った、「見よ、この石はわれわれのあかしとなるであろう。主がわれわれに語られたすべての言葉を、聞いたからである。それゆえ、あなたがたが自分の神を捨てることのないために、この石が、あなたがたのあかしとなるであろう」。 (ヨシュア記 24章 23-27節)
*)鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい):
大東亜戦争末期の沖縄戦で、沖縄県内の中等学校や師範学校の男子生徒により編成された学徒隊の名称。日本軍史上初の14-19歳の学徒による少年兵部隊で、男子約1500人が動員され、約800人が戦死した。