2025年6月15日日曜日

第57回:大東亜戦争の真実(11)

 1904年2月6日、日本政府はロシア帝国との国交断絶を通告し、2月8日に帝国海軍は旅順港外においてロシア艦隊への先制攻撃を開始します。そして、2月10日、日本政府は「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅(しょうちょく)」を公布し、ここに日露両国は本格的な交戦状態に入ることになったのです。「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」には、日露開戦に踏み切らざるを得なくなった理由が明確に述べられており、そこには明治天皇の開戦についての悲痛なご心情までもが表白されているのです。詔勅の全文の現代語訳は次のようなものです。

 天の助けをうけ、万世一系の皇位を受け継いだ大日本帝国の皇帝は、忠実にして勇敢な汝ら国民に以下のことを知らせる。
 朕(ちん)は、ここに、ロシアに対して宣戦を布告する。朕の陸海軍は全力を尽くしてロシアとの交戦に従事し、朕のすべての部下は、それぞれの職務を遂行し、その権限に応じて国家の目的が達成されるように努力してほしい。国際的な条約や規範の範囲で、あらゆる手段を尽くして誤算のないように心がけよ。
 朕が思うに、平和的な文明を求め、諸外国との友好関係を厚くして、東洋の治安を永遠に維持し、各国の権利や利益を損なわず、末永く帝国の安全を将来にわたり保障すべき状態を確立することは、朕が国交の要諦とし、日夜こうした考えに違(たが)うことがないように心がけてきた。朕の部下らも、こうした朕の意思に従って働き、諸国との関係も年がたつにつれてますます厚い親交を結ぶに至っている。
 今、不幸にしてロシアと戦端を開くに至ったが、これは決して朕の本意ではない。帝国が韓国の保全を重視してきたのは、昨日今日の話ではない。我が国と韓国は何世代にもわたり関係があったというだけでなく、韓国の存亡は帝国の安全保障にも関わる事態である。
 しかしながら、ロシアは、清国と締結した条約や諸外国に対して何度も行ってきた宣言に反して、依然として満州を占拠し、満州におけるロシアの地位を確固たるものにし、最終的には満州を併呑(へいどん)しようとしている。もし満州がロシアの領土になってしまえば、我が国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、極東の平和はそもそも期待できなくなってしまう。
 従って、朕はこうした事態に際して、何とか妥協しながら時勢のなりゆきを解決し、平和を末永く維持したいとの決意から、部下を送ってロシアと協議させ、半年の間繰り返し交渉を重ねてきた。ところが、ロシアの交渉の態度には譲り合いの精神はまったくなかった。ただいたずらに時間を空費し、時局の解決を先延ばしにし、表で平和を唱えながら、陰では海陸の軍備を増強して、我が国を屈服させようとした。
 そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険に瀕し、帝国の国益は脅(おびや)かされようとしている。事態は、既にここまで悪化しているのである。帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を求めようとしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。
 朕は、汝ら国民が忠実にして勇敢であることを頼みとして、速やかに永久的な平和を回復し、帝国の栄光を確たるものとすることを期待する。
 御 名 御 璽(ぎょめいぎょじ)
 明治三十七年二月十日

 私たちが歴史の真実に出会うために何よりも大切なことは、その時代の状況や背景について謙虚に学ぶ姿勢を持ち、その時代に語られた言葉に真摯に耳を傾け、さらにはその言葉の真意を尋ね求め、その時代に生きた人々の信念や思いに心を寄り添わせることなのです。私たちは歴史家の言葉や評価にのみ歴史の判断基準を求めるべきではなく、後世の識者や学者の言葉や論評ばかりを鵜呑みにしてはならないのです。私たちが歴史の真実に出会うために何よりも大切にすべきものとは何でしょうか。それは、その時代の人々の声を聞くことであり、その時代の人々の言葉に耳を傾けることです。

 さらに、そのような中でも、私たち日本人が何よりも尊ばなければならないものがあります。それは、天皇陛下の大御心であり、天皇御自身が語られたお言葉なのです。つまり、天皇陛下の御名によって公布された詔勅のお言葉にこそ、歴史の真実があるのであり、私たちはそのお言葉の中にこそ歴史の真実を求めなければならないのです。

 それでは、明治天皇の御名によって公布された「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」にはどのようなことが記されていたのでしょうか。この詔勅の中で語られている日露戦争の真実とはどのようなものだったのでしょうか。

 まず、何よりも忘れてはならないことは、明治天皇が日露両国の開戦を本意とはされず、あくまでも開戦には反対であられたということです。「今、不幸にしてロシアと戦端を開くに至ったが、これは決して朕の本意ではない」と明白に述べられているからです。また、明治天皇が日露開戦止むなきに至った際に詠まれた御製は余りにも有名です。

「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」

【現代語訳】
 四方の海にある国々はみな兄弟だと思っているこの世の中であるのに、どうして波風が立ち騒ぐのだろうか。

 日露戦争の講和条約斡旋を頼まれたアメリカのセオドア・ルーズベルト大統領は、この御製を知り、世界平和を願う精神に感激したと伝えられています。つまり、明治天皇は日露両国民を戦争の惨禍から救うために、最後の時まで和平のために御尽力されたのであり、そのための労苦を惜しまれなかったのです。

 しかし、現実はそのようにはなりませんでした。1904年(明治37年)2月4日午前、日本政府は臨時閣議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り、外交関係を断絶して独自の軍事行動をとる旨を閣議決定します。そして、この閣議決定は同日午後に開かれた緊急の御前会議で明治天皇によって承認され、ここに開戦が正式に決まったのです。

 「韓国の存亡は帝国の安全保障にも関わる事態である。しかしながら、ロシアは、・・・依然として満州を占拠し、・・・最終的には満州を併呑しようとしている。もし満州がロシアの領土となってしまえば、わが国が韓国の保全を支援したとしても意味がなくなるばかりか、極東の平和はそもそも期待できなくなってしまう。」

 ここには韓国の保全が日本にとっていかに大切なものであり、このままロシアの領土拡張の野心を放置し、ただ手をこまねいたまま事態を傍観するだけならば、やがて日本の安全保障は脅かされ、極東における平和は全く期待できなくなってしまうということが述べられています。時の政府は戦争による解決ではなく、あくまでも和平交渉による時局の解決に努力し、半年にわたり交渉を重ねてきましたが、もはや交渉による平和的解決の道は閉ざされてしまったというのです。

 そして、詔勅の最後は次のような言葉で結ばれています。

 「そもそもロシアには、始めから平和を愛する誠意が少しもみられない。ロシアはこの時点になっても帝国の提案に応じず、韓国の安全は今まさに危険に瀕し、帝国の国益は脅かされようとしている。事態は、既にここまで悪化しているのである。帝国は平和的な交渉によって将来の安全保障を求めようとしたが、今となっては軍事によってこれを確保するしかない。」

 最後に、詔勅にはロシアとの戦端を開くことになった理由が述べられています。そもそもロシアには平和を愛する誠意がないこと、韓国の安全はまさに危機的状況にあること、そして、日本帝国の国益は脅かされ、もはや軍事力の行使によってでしか平和を確保することはできないこと、などが告知されているのです。また、日露開戦にあたっては、国民の忠実にして勇敢なる精神を頼みとして、もって永久的な平和を回復し、帝国の栄光を確かなものとすることを期待するという大御心が高らかに宣明されているのです。

 私たちは明治天皇の御名によって公布された「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」の中にこそ、歴史の真実を尋ね求めるべきなのです。日本がロシアとの開戦に踏み切ったのは、あくまでも韓国の独立と安全を守るためであり、さらには極東の平和を脅かすロシアの軍事的侵略を断固阻止するためであり、ひいては日本の国益をも死守し、将来にわたる永久的な平和を回復するためだったのです。

 ここに、世界史上初めての有色人種国家と白色人種国家による近代戦争が始まることになりました。そして、有色人種の中で唯一近代化を成し遂げた日本が武士道精神をもって、世界屈指の軍事大国と謳われた白人国家であるロシアに一撃を加え、朝鮮半島と満州の地から追い払うことに成功したのです。日露戦争における日本の勝利は、大航海時代以来の欧米列強による侵略と抑圧の歴史を大転換するものであり、植民地支配にあえいでいたすべての有色人種国家に希望を与えただけでなく、白人の世界支配という絶対的な国際秩序を根底から揺るがす世界史的大事件となったのです。