日本は日清戦争の勝利によって中華思想に基づくアジアの国際秩序である「冊封体制」を崩壊に導くことができました。1895年4月17日、日清両国の間で締結された「日清講和条約」(下関条約)は、朝鮮国の独立を承認し、ここに清国と朝鮮との朝貢・冊封関係には終止符が打たれたのです。つまり、日清戦争の後、清国の対外関係は朝貢・冊封という関係ではなく、条約に基づく関係に一元化されることになったのです。それは、中華思想よりも近代国際法が優越するということでもありました。
神の摂理的観点から見れば、中華思想という価値観が崩壊させられ、それに基づく国際秩序である冊封体制が終焉したことは、神の理想的世界秩序を構築するための基盤を造成する第一歩となりました。日本は自国の国益として、朝鮮が清国の支配から解放されて、独立国家となるために日清戦争を戦ったのですが、これは神の摂理から見れば、アジア諸国を束縛していた旧態依然とした華夷秩序を崩壊させるための「義戦」であったことを私たちは忘れてはならないのです。
ところで、日清講和条約締結の後、満州・朝鮮への南下政策を推し進めていたロシアが、フランスとドイツと共に「東洋平和を守るため」という大義名分を掲げて、日本に対して遼東半島の返還を要求してきました。これが「三国干渉」です。遼東半島は日清講和条約により日本へ割譲されることになったのですが、日本が支那大陸に進出してくることを脅威と感じたロシアは、フランスとドイツと手を組み、遼東半島の返還を要求してきたのです。
三国干渉を拒否すれば、日本はロシアと対決せざるを得なくなり、当時の日本の軍事力をもってロシアに対抗することは現実的には不可能なことでした。そこで、陸奥宗光(むつむねみつ)外相は「ここは屈服するしか道はない」と、苦労して手に入れた遼東半島を返還するという苦渋の決断をすることになります。帝国主義列強の軍事的圧力の前には屈服せざるを得ないという国際情勢の厳しい現実を思い知らされた日本政府は、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん:大きな目的を果たすために、長い間試練に耐え、苦労すること)」を合言葉に、ロシアを仮想敵国とし、国民が一致団結して将来のロシアとの戦いに備えるようになったのです。
当時の国際秩序は強力な軍事力を背景として構築されていました。そして、強力な軍事力を持たなければ、権利を主張し、国益を追求し、国家国民の生命と財産を守ることさえできないというのが、国際社会の現実でした。日本政府は最大限に国益を守るため、そして、国民生活の安寧を断固死守するために、国力の粋を集めて国際社会の厳しい現実に敢然(かんぜん)と立ち向かわなければならなかったのです。
ところが、日本が三国干渉を受け入れ、遼東半島を返還したことが、思わぬ事態を巻き起こすことになります。清国の弱体化に付け込んだロシアは、三国干渉により遼東半島を取り戻したことの見返りに、遼東半島先端部の旅順・大連の租借権と、満州北部の東清鉄道(とうしんてつどう)の敷設(ふせつ)権を清国に要求します。さらに、三国干渉の当事国であるフランスとドイツもそれぞれに見返りを要求するようになり、フランスは広州湾一帯を、ドイツは膠州湾(こうしゅうわん)を租借することになりました。
さらに追い打ちをかけるように、朝鮮政府も日清講和条約で決められた朝鮮の完全独立という条項を根拠に、日本の保護下に入ることを拒否してきました。朝鮮国王の高宗は、ロシアなどの三国干渉にあっさりと屈服したばかりか、その後もロシアのやりたい放題の南方進出に物言うこともできず、西欧列強の軍事的圧力の前にその脆弱(ぜいじゃく)さを露呈した日本を侮(あなど)るようになります。そして、日本が朝鮮半島の近代化のために行ってきた改革をことごとく中止し、こともあろうに政治・財政・軍事の各方面においてロシア人顧問を招くなど、ロシアに対してあからさまに媚(こ)びへつらうようになったのです。
これが、朝鮮の伝統的政策とされる事大主義(じだいしゅぎ)です。事大主義とは、弱者が強者の庇護のもとに入ることで、自国の存立を維持しようとするもので、歴史的に朝鮮は支那の歴代王朝の庇護下で、自国の存立を守ってきたのです。清国が西欧列強に蹂躙されて半植民地状態に置かれ、さらに日清戦争にも敗れることで「張子の虎」であることが暴露されると、朝鮮は新たな強国を求め、その庇護のもとに入ろうとしたのです。その強国がロシアだったのです。
そのような状況の中で、1900年に一つの事件が清国で発生します。「義和団事件」です。欧米列強の餌食となっていた清国において、「扶清滅洋(ふしんめつよう:清を扶(たす)け、外国を滅ぼす)」のスローガンを掲げた排外主義運動が各地で起こるようになったのです。そして、この排外主義運動に便乗する形で、清国は日本と欧米諸国(イギリス・ロシア・ドイツ・フランス・アメリカ・イタリア・オーストリア)に対して宣戦布告をすることになります。そこで、日欧米の8か国は連合軍を編成し、およそ7万の兵を天津に上陸させ、瞬く間に北京を占領してしまいます。ところで、この時、イギリスはブーア戦争、アメリカはフィリピン独立戦争の鎮圧に忙殺され、清国との戦いにまで手が回りませんでした。そこで、連合軍の主力となって暴動鎮圧に力を発揮したのが日本とロシアでした。その中でも、日本軍の活躍は目覚ましく、その規律ある行動は欧米列強に高く評価され、以後、日本は「極東の憲兵」と呼ばれるようになりました。この日本軍に対する評価は、やがて日英同盟を結ぶ際の大きな要因ともなりました。
ところで、ロシアは義和団事件を口実に満州に対する支配圏を拡大していきました。義和団の一味が満州に侵入してきたという理由で、16万の軍隊を満州に派遣し、その全域を占領してしまったのです。さらに、清国に圧力をかけて、満州での利権を無理やりに認めさせ、朝鮮国との国境付近にまで軍を進出させ、日本の利害と真っ向から対立することとなったのです。
当時の日本政府の首脳は、ロシアによる満州の支配権を認める代わりに、朝鮮半島に対する日本の支配権を認めさせる「満韓交換論」と、日本と同様にロシアの南下政策に脅威を感じているイギリスと同盟を結ぶことでロシアを牽制すべきとする「日英同盟論」との間で激しく揺れ動いていましたが、結果的に、日本はイギリスとの軍事同盟を結ぶことを決断し、1902年1月30日に「日英同盟協約」を締結することになりました。そして、日本政府は、イギリスに対して日本の朝鮮半島における政治・経済上の優先権を承認させることに成功し、日英同盟を後ろ盾としながら、ロシアに対しては満州からの撤兵を要求するようになったのです。
しかし、ロシアの南下政策は中断されることはなく、かえって、満州にはロシア軍の増兵の気配すらあり、さらに朝鮮政府は鴨緑江(おうりょくこう)の港町をロシアに差し出し、日本政府が危惧した通りに、ロシアはそこに軍港の建設を始めたのです。これは日本侵略の準備に等しい行為であり、日本政府はロシアに対して猛抗議しますが、ロシア政府は日本の抗議を完全に無視するだけではなく、軍を南下させる意図を隠そうともしませんでした。
1903年12月、ロシア軍の動向を探っていた密偵から日本政府を震撼させるような報告が入ります。それは、「シベリア鉄道の全線開通まで残り半年となった」という知らせで、もしシベリア鉄道が完成し複線化されれば、ヨーロッパに常駐する100万人を擁するロシア正規軍が満州に短時日に投入できることになり、そうなればもはや日本軍に勝ち目はありませんでした。
朝鮮政府が事大主義により、日本の保護下に入ることを嫌い、ロシア帝国に急接近したことは、朝鮮半島が再び他国の属国となることを意味していました。また、日清戦争でせっかく勝ち取った朝鮮国の自主独立国家としての歩みが儚(はかな)くも消え去っていくことでもあります。ここに日本は奮然と立ち上がって、ロシアの侵略から朝鮮半島を守るために、軍事大国ロシアとの開戦を決意せざるを得なくなったのです。常備兵力において15倍(ロシア軍300万人、日本軍20万人)、国家の歳入において8倍(ロシア20億円、日本2.5億円)、国土は68倍、人口2.8倍、保有戦艦2.3倍の大国ロシアとの戦争を決意した日本は、1904年2月6日、それまでの日露交渉が決裂したことを受けて、ロシアに国交断絶を通告したのです。