極東国際軍事裁判(東京裁判)において、裁判長に次のような質問をした証人がいました。その証人とは石原莞爾(いしわらかんじ)陸軍中将です。石原は「米国は日本の戦争責任を随分と古くまで遡(さかのぼ)ろうとしているようだが、一体いつまで遡るつもりなのか」と問いただします。そこで、裁判長は次のように返答しました。
「日本の行った侵略戦争すべてです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです。」
実は、ほとんどの日本人が日本はかつて侵略戦争をしたと信じ込まされています。そして、多くの日本人がアジアに対する侵略戦争の始まりが日清戦争からであったと思い込まされており、また、日露戦争の勝利によって日本は満洲への侵略を始めるようになったと教え込まれてきたのです。しかし、真実は全く違います。日本が侵略国家であるという歴史観は、極東国際軍事裁判によって作り出された虚構でしかありません。そして、日本を侵略国家として断罪しようとした連合国側の歴史観をそのまま私たちが受け継いでいるとするならば、これほど惨めで不幸なことはないのです。
そこで、日露戦争の後にいったいどのようなことが起きていたのか、殊(こと)に満洲をめぐって日本はどのように行動したのか、その歴史の真実を明らかにしていこうと思います。まず、日露戦争後の日露講和条約の中で、満洲の権益に関してはどのような取り決めがなされたのでしょうか。講和条約では以下のように規定されています。
第五条
ロシア帝国政府は清国政府の承諾をもって、旅順、大連ならびにその付近の領土および
領水の租借(そしゃく)権およびその租借権に関連し、またはその一部を組成する一切の
権利、特権および譲与を日本帝国政府に移転譲渡する。
第六条
ロシア帝国政府は長春・旅順口間の鉄道およびその一切の支線ならびに同地方において
これに付属する一切の権利、特権および財産および同地方において、その鉄道に属し又は
その利益のために経営される一切の炭鉱を補償を受けることなく且(か)つ清国政府の承
諾をもって日本帝国政府に移転譲渡することを約す。
日露戦争の勝利により、日本政府はロシア政府から、一つは三国干渉によって清国に返還した旅順・大連を含む遼東半島南端部を、もう一つには旅順と長春を結ぶ南満洲鉄道の権益を譲渡されました。しかも、これらの譲渡は清国政府の承諾を条件としたものでした。ここでも誤解してはならないのですが、そもそも遼東半島の租借は日清戦争後に日本と清国との間で締結された下関条約により決定されたものでした。ところが、遼東半島の租借に反対したロシアが戦争当事国でもないのに、ドイツとフランスを唆(そそのか)して、いわゆる三国干渉を行い、日本に遼東半島を返還させたのです。
日露講和条約の第五条は三国干渉により不当に返還させられた遼東半島を日本が本来の条約の取り決めに従って元どおりに取り返すことを承認したものでした。しかも、下関条約で約束されていたことを、改めて清国政府に承諾してもらって移転譲渡するというのですから、日本政府がいかに誠実であるかがよく分かります。もっとはっきり言えば、日本政府ほどお人好しの政府は当時の国際社会においては皆無でした。欧米列強による植民地支配、対外侵略が一方的な略奪に終始したものであったことを顧みれば、日本政府の外交姿勢はお人好しと思えるほどに誠実なものであり、欧米列強のそれとは全く似ても似つかないのものだったのです。
また、満洲の権益である南満洲鉄道の譲渡に関しても、日露間のみで決定されたものではなく、あくまでも清国政府の承諾を前提としたものであったことを銘記しておかなければなりません。つまり、南満洲鉄道の権益を譲り受けたことから、日本の満洲侵略が始まったなどというのは、全くの虚偽であり、真実を知るならば、悪意に満ちた歴史の捏造であることは誰の目にも明らかなのです。南満洲鉄道の権益を正当な手続きをもって獲得したことが、どうして侵略となり、さらには帝国主義的な軍事侵略の始まりとなるのでしょうか。しかしながら、このように捏造された歴史を真実であるかのように信じ込んでいる日本人が余りにも多いことは、何よりも日本国民にとっての不幸であり、日本国の尊厳と名誉を踏みにじる悲劇でしかないことを強調しておきたいと思います。
さて、「清国政府の承諾をもって」という条文の規定に従って、日本政府は日露講和条約締結後、速やかに清国政府との協議に入ります。米国ポーツマスでの講和会議を終えて、小村寿太郎外相が日本に帰国したのは10月16日でしたが、その翌日には閣議が開かれ清国政府との間で条約を締結する方針が検討されます。そして、11月6日に桂太郎首相は小村外相を日本側特派全権大使として北京に派遣することになったのです。条約締結に向けた会議は、清国側は袁世凱(えんせいがい)、日本側は小村外相を中心として進められますが、11月17日から始まった計20回に及ぶ会議で最も多く議論されたのは日本軍の撤退問題でした。
しかし、日本軍の撤退問題が主要議題として取り上げられるということには違和感があります。なぜなら、当時の満洲地域は南下政策を進めたロシア帝国により支配され、半植民地状態にありました。さらにロシアは朝鮮半島にまでもその触手(しょくしゅ)を伸ばし、極東アジアの平和を脅(おびや)かしていたのです。このようなロシアの南下政策、植民地拡大のための侵略行為に対して、極東アジアの平和を維持するために奮然と立ち上がり、ロシアのアジア侵略に対抗して戦ったのが日本だったのです。そして、日露戦争において約20万人の戦傷者とおよそ20億円の戦費を惜しみなく捧げました。そして、これらの犠牲と代価をもって満洲地域からロシアを駆逐したのが日本軍だったのです。ロシア帝国の侵略と支配から満洲が解放されたのは日本軍のお陰であるにもかかわらず、その日本軍には早期の撤退を要求し、その一方で清国政府は一滴の血も流さず、一銭の代価も支払うことなく、満洲地域を返還しろというのですから、これほど虫のよい身勝手な申し出があるでしょうか。
清国政府は日本軍の撤退期間を12か月に短縮し、鉄道守備兵も撤退させることを求めてきましたが、日本政府はこれらがポーツマス条約に抵触する内容であることから、軍の早期撤退と鉄道守備兵の撤退は了承できないとして退けます。また、満洲地域への再侵略の危険性がなくならない限りにおいては、何よりも安全の確保を最優先しなければならないという立場を崩しませんでした。日本政府は国際法規を遵守し、極東アジアの平和と安全を維持するために清国政府と粘り強く交渉したのです。
そして、1か月余りの交渉を経た12月22日、ようやくポーツマス条約に基づいた日本への満洲利権の移転譲渡が清国により了承され、日清両国の間で条約が締結されることになったのです。この時、日清両国間で締結された条約が「満洲善後条約」(正式名称は日清間「満洲に関する条約」)と呼ばれているものです。
日本は満洲を侵略したのではありません。日本は日清戦争ならびに日露戦争の後に交わされた正式な条約(下関条約と日露講和条約)に基づく正当な手続きにより満洲の権益を獲得したのです。そして、これらの権益の譲渡はロシア帝国政府だけでなく、清国政府も承諾したものであり、その権益獲得においては一切の法規違反もなければ、侵略による略奪行為もなかったのです。
では、「満洲善後条約」によって、日本はいかなる権益を確保したのでしょうか。まず、この条約の第一条には次のように記されています。
第一条
清国政府はロシアが日露講和条約第五条および第六条により日本国に対してなしたる一
切の譲渡を承諾する。
つまり、日本は日露講和条約に基づいて旅順・大連を含む関東州と南満洲鉄道の権益を正式に獲得することができたのです。そして、ポーツマス条約の追加約款(やっかん)により、旅順から長春まで約700㎞に及ぶ南満洲鉄道を守備するために、1㎞あたり15名を上限とする日本陸軍の常駐権を認められるのですが、この独立守備隊が後の「関東軍」であり、常備兵力は10400名でした。日本軍はこの追加約款で決められた兵員の数をこの後も律義に守り続け、1931年の満洲事変が勃発した時まで、関東軍の常備兵力は変わらなかったのです。
このことからも日本軍ならびに日本政府がいかに国際法規を遵守することに専心していたかが分かります。日本が満洲を侵略したということ自体が全くの虚構なのです。日本が侵略国家であるというのは、極東国際軍事裁判において連合国が日本を断罪するために捏造した虚偽の歴史であったことを、私たち日本人は決して忘れてはならないのです。私たちは捏造された虚偽の歴史を信じるのではなく、ありのままの真実の歴史を取り戻さなければなりません。そして、日本軍ならびに日本政府が行ってきた対満外交政策について虚心坦懐(きょしんたんかい)に学ばなければならないのです。私たちが歴史の真実を知ることができたならば、その時こそ、暗闇の中に隠されていた大東亜戦争の真実は誰の目にも明らかになるようにくっきりと浮かび上がり、私たちの目にはっきりと見えてくるようになるはずなのです。