2026年2月8日日曜日

第83回:良心は国際法に勝る

 米国によるベネズエラでの大規模な軍事作戦は、国際法違反であるとの批判があります。例えば、日本の左翼新聞の代表格である朝日新聞は、「冷戦後の秩序の守り手だった米国が、国際法、国家の主権、価値観を共有する同盟関係などをないがしろにしはじめた」と断定し、さらに「『法の支配』から『力の支配』に世界を塗り替えようとしている。行き着く先は、軍事力で勝る大国が仕切る弱肉強食の無秩序だ。そんな愚行を許してはならない」と糾弾しています。

 また、朝日新聞は社説でも、「ベネズエラへの軍事行動はとりわけ深刻だ。主権国家に踏み込み、大統領を拘束し、その国を『米国が運営する』と言明する。国際法の根幹である主権の尊重を踏みにじる行為にほかならない」と糾弾しています。

 しかし、次のような事実も忘れてはなりません。不正選挙で居座った統治者の資格がない独裁者であるマドゥロ大統領が排除されたことを、多くのベネズエラ国民が喜んでいるという事実です。人口のおよそ4分の1ともなる800万人の国民が、国外に逃避せざるを得なくなるような破綻国家の独裁者がマドゥロ大統領だったのです。また、ベネズエラが「麻薬国家」として米国に大量の麻薬を流入させ、マドゥロ大統領は「麻薬テロリスト」と呼ばれていました。そのような大統領が麻薬密輸の主犯であるならば、米国はいかにして自国の麻薬禍から国民を守るのでしょうか。

 まず、ここで確認しておきたいことは、そもそもベネズエラの独裁体制について、あるいはマドゥロ政権による麻薬密売について、国際法は何ら解決策を提示することはできなかったということです。つまり、米国の軍事行動を国際法違反と非難することはあっても、ベネズエラの独裁者の横暴に対して国際法は全く無力だったのです。

 その上で、さらに確認しておきたいことは、トランプ政権によるベネズエラへの軍事介入が、国際法によって止められなかった大量の麻薬密売を停止させ、国際犯罪組織を支援し、自国民に対しては残虐な圧政を行っていた独裁者を排除することに成功したという事実です。そして、国際法はそれに違反する独裁国家を抑止することなどできません。南シナ海に軍事拠点をつくり、国際海洋法条約に違反するという国際裁定を受けても、それを「紙くず同然」と切り捨てた中国の侵略的野心を国際法は挫(くじ)くことができず、世界平和の番人であるはずの国連は全くの無力であったという事実を忘れてはならないのです。

 ここで、新約聖書の「ルカによる福音書」に記された興味深い一つの逸話を紹介したいと思います。

 安息日に、ある会堂で教えておられると、そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」。主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。
(ルカによる福音書 13章 10-17節)

 当時のユダヤ社会では、安息日には病気の癒しをしてはならないと決められていました。そこで、会堂司はイエスが安息日に病気を癒したことに憤り、「働くべきは六日ある。その間に、なおしてもらいにきなさい。安息日にはいけない」とイエスを糾弾したのです。しかし、イエスにとっては安息日を規定した律法を守ることよりも、18年間も病気の霊に苦しめられていた女を一日でも早く救ってあげることの方が、正義だったのです。イエスは「マルコの福音書」でも、「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」と問いかけられ、片手の萎えた人を癒しています。

 そして、「安息日にしてはならぬことをするのですか」と、律法の規定を絶対正義とするパリサイ人に対して、イエスはその偽善を告発して、次のように語られたのです。

 「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。」
(マルコによる福音書 2章 27節)

 「ルカによる福音書」に記された逸話は、安息日を厳格に守るという律法の正義に勝るより大切な正義があることを教えています。それが、長年の病気の苦しみから女を救ってあげることであり、片手の萎えた人を癒してあげることでした。つまり、安息日に善を行い、命を救うことこそ、律法にまさる正義だったのです。

 この逸話を米国によるベネズエラの軍事侵攻に重ね合わせるならば、私たちには今まで気づかなかった新たな視点が見えてくるのではないでしょうか。いかなる理由があっても、国際法を遵守すべきと主張する者は、まさにこの逸話に登場する会堂司であり、パリサイ人のようです。病気が癒されたことに憤り、なぜ、安息日にしてはならぬことをするのか、と詰問(きつもん)し、糾弾するのが正しいことだと思っています。そこには、人々の苦しみや痛み、悲しみや不幸に寄り添う気持ちは微塵(みじん)もありません。ただあるのは、冷徹なまでの律法主義、そして、国際法至上主義という偽善に心酔する自己満足です。

 私たちは、18年間も病気の霊に悩み苦しめられていた一人の女が癒されたことを憤(いきどお)る者となるのですか、それとも、この女が長年の苦悩から解放されたことを喜び、イエスがなされたすばらしいみわざを見て喜ぶ者となるのですか。イエスが一人の女の病気を癒し、「十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」と語られた時、「イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った」と記されていますが、これこそが私たちの内なる良心の声だと思います。

 米軍によるマドゥロ大統領の拘束について、これは国際法違反であるから、いかなる理由があっても許されることではないと憤る者に対して、トランプ大統領が「国際法は人間を幸せにするためにあるもので、人間が国際法のために存在するのではない」と弁明されたら、どのように返答するのでしょうか。ルカによる福音書では「反対していた人たちはみな恥じ入った」とありますが、実は、マルコによる福音書では片手のなえた人の癒しに関して、パリサイ人たちは「何とかしてイエスを殺そうと相談しはじめた」と記されているのです。

 トランプ大統領は米紙ニューヨーク・タイムズの質問に対して、実に意味深長な答えをしていました。すなわち、外交・軍事における自身の権限への制約を問われたトランプ大統領は、次のように答えたのです。

 「外交政策において自らを縛るものはたった一つだけある。それは自分の良心だけだ。私の道徳心、私の精神、それが私を止められる唯一のものだ。」

 トランプ大統領は国際法を全く無視しているわけではありませんが、国際法の限界を知っているのであり、さらには国際法が悪や不義に対して、どれほど無力であるかを熟知しているのです。そして、偽善と不義がはびこる現代の世界において、いかにすれば正義が行われ、どうすれば人々が幸福になれるのか、それは国際法によって実現するものではないことを誰よりも知っているのです。

 「良心が国際法に勝る」という、誰もが忘れかけていた真理をトランプ大統領は世界中に宣布したのです。「安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」というイエスの問いかけが、今、トランプ大統領の口を通して世界人類に向けて発せられているのです。私たちはトランプ大統領が語りかける現代の福音に対して、憤る者となるのか、それとも恥じ入る者となるのか、それこそ、私たち一人一人の良心がその答えを見つけ出さなければならないのです。私たちを縛ることができるのは、良心だけなのですから。

 すると、そのとき、片手のなえた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、「安息日に人をいやしても、さしつかえないか」と尋ねた。イエスは彼らに言われた、「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」。そしてイエスはその人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そこで手を伸ばすと、ほかの手のように良くなった。パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
(マタイによる福音書 12章 10-14節)