日本は朝鮮人の生命を奪ったと言われていますが、これは真実なのでしょうか。また、人命を奪ったというのは、具体的にどのような歴史的事実を指しているのでしょうか。日本が朝鮮人の生命を奪ったことの代表的な事例として、いつも取り上げられるのは「三・一独立運動」における犠牲者のことです。「三・一独立運動」とは、1919年3月1日に勃発した反日独立運動であり、朝鮮民族が一斉に蜂起(ほうき)し、「独立万歳」を叫んで決起したことから「万歳事件」とも呼ばれています。現在の韓国では3月1日は「三一節」として国家の祝日に指定されており、毎年、現職の大統領が出席して演説を行う記念式典が行われています。
ところで、「三・一独立運動」において日本側は憲兵や巡査、あるいは軍隊までも動員し、 これを鎮圧しましたが、 朝鮮総督府の公式記録によれば、 この運動の参加者はおよそ106万人で、553人が死亡したと記録されています。また、総督府当局による逮捕者は12,660人であり、有罪判決を受けたのは3,967人でした。これらの逮捕者は、ただデモに参加したという理由で捕らえられたのではありません。3月は示威(じい)運動に過ぎなかったものが、やがて暴徒化し、各地で襲撃事件が多発したので、やむなく朝鮮総督府は警察・軍隊による武力鎮圧を行ったのです。しかし、有罪判決を受けた者の中で死刑や懲役15年以上の判決を受けた者は一人もいません。さらに、懲役3年以上の刑を受けた者もわずか80人だったのです。
ところが、韓国の歴史教科書では、日本が残虐な手段で運動を弾圧し、多くの朝鮮人を捕らえて拷問し、虐殺したとして、次のように記述されています。
「万歳デモが拡散すると日帝は憲兵・警察はもちろん、軍人まで緊急出動させ、デモ群衆を無差別殺傷した。・・・全住民を教会に集合させた後、監禁して火をつけて虐殺した。デモに参加したという理由で無数の人々が投獄され、非人道的な刑罰を受け多くの人が命を失った。」
しかし、歴史的に見て「三・一独立運動」が本当に独立運動であったのか、今日では甚だ疑問視する声も挙がっています。例えば、韓国の作家である金完變(キムワンソブ)は綿密な研究結果として、「三・一独立運動」は「独立運動ではなく暴動であった」と結論づけています。3月1日に京城において「独立宣言」が読み上げられ、最初は「大韓独立万歳」を叫ぶ群衆による平和的な示威行動でしたが、宗教指導者たちの扇動もあり、4月上旬には朝鮮全土に暴動が繰り広げられるようになりました。そして、警察署や村役場、小学校などが襲撃され、放火、投石、破壊、暴行などが行われる暴動となったのです。朝鮮憲兵隊の記録によれば、3月から4月だけで618か所で847回の騒擾(そうじょう)が起こったとされています。
「三・一独立運動」における「独立宣言書」の起草者である崔南善(チェナムソン)は2年6カ月の懲役刑を受けますが、後に大東亜戦争について「英米の桎梏(しっこく:足かせと手かせ)に泣く東亜十数億大衆の祈願であり、真に万邦共栄の世界秩序を確立するアジアの解放戦争」であるとの賛辞を送っています。また、満洲建国大学の教授として教鞭を執っているという事実もあります。また、三・一独立運動の代表者の一人であった朴熙道(パクヒド)は日本の公正な裁判制度に感激し、やがて熱烈な親日派として朝鮮言論界をリードするようになりました。彼はキリスト教青年会中央幹事でありながら、朝鮮の近代化のためには朝鮮語を全廃すべきであるとの申し入れを総督府にするほどだったのです。
また、三・一独立運動の象徴的な存在として最も有名なのが、16歳の少女でありながらも独立運動に参加し、日本当局による厳しい拷問で併発した病気により獄死した柳寛順(ユガンスン)です。若き少女の壮烈な祖国愛は「朝鮮のジャンヌ・ダルク」として今日も韓国国民の胸に深く刻まれています。しかし、ここにも捏造と誇張があったことは余り知られていません。
まず、柳寛順に対する最終量刑は懲役7年ではなく、3年でした。韓国の教科書では柳寛順は逮捕後も「日本に裁く権利はない」と獄中闘争を展開し、「検事に椅子を投げつけたために法廷侮辱罪を加算され、7年の刑を宣告された」と記載されていますが、そのような事実はありません。また、柳寛順は残忍な拷問により獄死したとされ、さらにその遺体は六つ切りにされたと伝えられていますが、実際に遺体を引き取った級友の証言によれば、遺体は切断されていませんでした。さらに、柳寛順が獄中で激しい拷問を受けたという事実すら捏造だったのです。実は、柳寛順はデモ参加時に被った負傷と獄中での反抗により体力を著しく消耗し、その結果として病気を併発し、獄死したというのが真相なのです。
金完變の研究によれば、日本の憲兵6人と警察2人を殺害し、官公署を破壊放火した朝鮮人被疑者に対してでさえ、拷問が加えられることはなかったことが政府記録には残っています。そもそも、朝鮮では民事被告人に対してさえ拷問することが常習化されていたのですが、1908年に日本によって残虐な拷問行為は禁止されました。つまり、日本統治下において、刑務所での拷問は禁止され、近代司法制度が導入されたことで多くの朝鮮人が救われたのです。にもかかわらず、韓国では三・一独立運動の逮捕者として拷問を受けた者は10万人に達したというような、荒唐無稽の虚偽が今日でもまかり通っているのです。
さらに、「三・一独立運動」は日本と朝鮮との間に分裂と対立をもたらすための欧米宣教師による謀略であったという説もあります。欧米のキリスト教宣教師に扇動された朝鮮人キリスト教徒たちが主導することで発生した暴動であったというのです。因みに、「独立宣言書」に署名した民族代表33名のうち、キリスト教関係者は16名でした。
韓国では「日韓50年戦争」という、まったく根拠のない歪曲と捏造の歴史教育が学校現場において公然と行われています。ここで50年というのは、「東学党の乱」(甲午農民戦争・1894年)を始まりとして、1945年の終戦までの期間を意味していますが、この50年間、日韓は戦争状態にあったというのです。そして、この期間に韓国国民は日本の植民地支配により塗炭(とたん)の苦しみを味わい、さらに日本は虐殺の限りを尽くし、何十万人もの命を無惨にも奪ったというのです。しかし、これらの主張は真っ赤な嘘です。
まず、日本軍による東学党の大虐殺から日韓50年戦争が始まったことになっていますが、その捏造された内容は『朝鮮独立運動之血史』という著書に基づくものです。反日の目的をもって書き記されたこの本の著者は朴殷植(パクウンシク)という人物で、その内容はさながら「野蛮な日本による虐殺物語」とも言えるものでした。その中には次のような内容があります。
「東学党は、鎌や鋤(すき)などの農具を武器にして蜂起し、政府軍や日清軍と交戦すること9カ月以上に及んだ。死者30余万人を数え、民族史上、古今未曽有(ここんみぞう)の惨状を極めた。」
ここで、日本軍が清国との間で締結した「天津条約」に基づいて、在留邦人保護のために朝鮮半島に出兵したのは、東学党の乱が収束に向かっていた頃であり、歴史捏造本である『朝鮮独立運動之血史』に記されているような古今未曽有の惨状をもたらしたのは日本軍ではありません。この本に対する批判は韓国内からも起きており、金完變はその著書『親日派の為の弁明』の中で、東学党三十万人の虐殺と日露戦争時の民間人虐殺は完全に虚偽であると告発しています。日露戦争の時にも日本軍が民衆を労働力として酷使し、拒否した者を拷問、拘束し、また惨殺したなど、嘘の作り話が流布(るふ)されていますが、実際にはロシアに対して脅威を感じていた朝鮮人は日本軍を歓迎し、武器の輸送や鉄道建設にも協力し、さらには日本軍を歓迎する「奉迎門」なるものが建設されたという事実さえあるのです。
では、現在の韓国の歴史教科書では、「日韓50年戦争」について、どんな記述をしているのでしょうか。一読するだけで、捏造と虚偽であることは明らかなのですが、その内容については、開いた口が塞がらない、というのが正直な感想です。その一部を紹介します。
「大韓民国臨時政府は中国の諸地域に散在していた独立軍を一つに集めて光復軍を組織して、日本の軍隊の強制徴用から脱出した青年たちも光復軍に移ってきた。ついに日本が第二次大戦を起こしたので我が臨時政府も日本に宣戦布告をして、連合国と連絡を取りながら独立戦争を展開した。世界各国も我が国の独立を約束し、民族全体が国の内外で戦い、日本に対抗し、ついに光復を迎えた。」
「日帝が太平洋戦争を起こすと、臨時政府は日本に宣戦布告し、連合国軍と手を結び、独立戦争を展開した。光復軍は中国各地で中国軍と協力しては日本と戦った。そればかりか、インド、ミャンマー戦線でもイギリス軍と連合して日本軍と戦った。」
明確に断定しますが、大東亜戦争において朝鮮が日本に宣戦布告したというのは事実ではありません。また、当時、朝鮮人は日本人として大東亜戦争を共に戦ったのであり、多くの朝鮮人が志願兵として参戦したのです。その志願者募集に対する倍率は驚異的なものでした。まず、朝鮮人志願兵の募集を始めたのは1937年の支那事変の勃発の翌年からでした。最初の募集に応じた志願者数は2,946名で、合格者は406名、志願倍率は7.3倍でした。その翌年の志願倍率は20.1倍に上昇しています。また、日米開戦の後、1942年には志願者数は254,273名、合格者は4,077名、志願倍率は何と62.4倍に達しているのです。
韓国の教科書には「日本の軍隊の強制徴用から脱出した青年たちも光復軍に移ってきた」と記されていますが、朝鮮人に対する徴兵制が導入されたのは、1944年9月からであり、大東亜戦争前に朝鮮人の徴用はなかったのです。日本の軍隊の強制徴用から脱出した青年とはいったい誰のことなのでしょうか。
さらに、朝鮮人の徴兵について言えば、1944年9月に徴用された朝鮮人の入営は翌年の1月から7月であり、訓練期間中に終戦を迎えることになったので、実戦に投入された兵士は一人もいませんでした。つまり、徴兵された朝鮮人は実戦に参加しておらず、一人の戦死者も出ていないのです。大東亜戦争において戦死した朝鮮人は志願兵のみだったのです。日帝支配という暗黒時代に朝鮮人は無理やり戦地に送られ、自らの意思に反して徴兵されて命を奪われたなどと喧伝(けんでん)されていますが、それらは全くの嘘であり、歴史の捏造そのものなのです。このような虚偽の歴史が公然と学校教育で教えられ、多くの韓国国民が洗脳されていることほど悲劇的で、哀れなことはないのではないでしょうか。
日本統治時代に朝鮮人は人命を奪われた、日帝時代はこの世の生き地獄だった、と韓国国民は日本を憎悪し、朝鮮総督府を悪の権化(ごんげ)のように糾弾しますが、それならば、どうして韓国併合の35年間に朝鮮半島の人口は倍増したのでしょうか。食料の自給体制を確立したのは総督府であり、荒廃した農地を開墾し、干拓・灌漑用水の整備により、慢性的な食料不足を解消したのも総督府であり、各地に病院を建設し、医学の進歩と衛生環境の改善により死亡率を減少させたのも総督府なのです。わずか30年ほどで人口が倍増したような国は当時の世界にはありませんでした。そして、日帝時代に朝鮮人の平均寿命は24歳から42歳にまで伸びたのです。「奴隷を増やすために無理やり子供を産ませたので人口が増加した」と真面目に主張する朝鮮人もいますが、何とも身勝手な言い分ではありませんか。
併合時代を生きた朴贊雄(パクチャンウン)は著書の中で、日本統治時代を「前途に希望が持てる時代だった」と回顧し、「韓国史の中で、これほど落ち着いた時代がかつてあっただろうか」と、統治時代を公正に評価しています。日本統治時代は、この世の生き地獄などではなく、欧米の植民地支配とは全く異質の統治により近代的経済発展の基礎が築かれた稀有(けう)な時代だったのです。プリンストン大学のコーリ教授は日本統治時代について、「かつて欧米の植民地だった国で、当時の朝鮮並みの水準に達した国は今なお存在しないのではないか」と述べているのです。日本は朝鮮人から命を奪ったのではありません。むしろ朝鮮人の生命と財産を守り、朝鮮人を繁栄させ、寿命を伸ばすなど、多大な貢献をしたというのが、歴史の真実なのです。