2025年1月5日日曜日

第31回:日本を新生復活させるための提言(2)

 日本を新生復活させるためには、何が必要なのでしょうか。そして、今を生きる私たち日本人は何をしなければならないのでしょうか。今回は、日本を新生復活させるために何よりも大切なことの一つとして、「肇国(ちょうこく)の精神」について書き記してみたいと思います。

 「肇国」という言葉を聞いたことがありますか。大東亜戦争中の日本において文部省から発行されていた「高等科国史」の教科書は、「肇国」という単元から始まっています。「肇」は、「肇(はじ)める、肇(はじ)め」という意味で、「肇国」とは「国をひらきはじめる」という意味になります。

 実は、「肇国」と「建国」の意味は異なります。日本には「建国」はなく、「肇国」があるだけであるというのですが、その違いは何なのでしょうか。大雑把(おおざっぱ)に言えば、建国とは人為的なものであり、誰かが国を始め、あるいは誰かが国を建てるということです。しかし、肇国とは人が始めるものではなく、人によってその時が決められるものでもありません。人によってではなく、神の御心によって肇(はじ)められることが肇国であり、日本は建国された国ではなく、神によって定められた国であるというのです。

 この肇国の精神こそが、日本国と日本国民の生命の源泉なのです。そして、日本という国が神によって肇められたという肇国の精神を国家の礎とすることにより、日本は新生復活することができるのです。

 それでは、「肇国の精神」を礎とするとはどういうことなのでしょうか。それは、「肇国」という言葉の意味を国民一人一人が正しく理解することから始まります。日本国の生命の源泉である肇国という言葉が戦後教育の中で完全に消し去られてしまったことにより、日本国は生命を失ったのであり、その結果、死せる国となってしまったのです。生命の源泉を失うことで死を招いてしまったのですから、その反対に生命の源泉を取り戻すことによってのみ日本は復活することができるのです。

 まず、肇国とは天照大神が天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅(しんちょく)を皇孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に授けられ、豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)に降臨させたこと、つまり「天孫降臨」のことを指しています。80年前の日本人はこの「肇国」という言葉を誰もが知っていました。日本という国は建国されたのではなく、神の御心により肇められた類(たぐい)まれなる国であるというのが、日本人にとってのごく当たり前の国家観だったのです。

 「肇国」と「建国」の違いについても、日本人は正しく理解していました。建国という言葉は人為的に国が建てられたということを含意しており、人為的に建てられた国であるがために、人為的に倒されることがあるのです。「建」の対語には「倒」や「壊」があり、「始」には「終」があり、「初」には「末」があります。国が建てられたものであれば、いつかは倒れ、国が始められたものであれば、いずれ終わりが訪れ、国に初めがあるならば、やがてその国は末を迎えるということです。

 しかし、「肇」という言葉には対語がありません。日本という国は神によって肇められた国なので、不朽不滅であり、終わりもなければ、倒れることもありません。『神皇正統記(じんのうしょうとうき)』の最初の一文が「大日本者神国也(おおやまとはかみのくになり)」となっているのはそのためです。日本は神によって肇国された国であるということが、日本の国体であり、国柄であり、国の根源的な形態なのです。他の国のように革命によって王朝が交代することはなく、あるいは興亡盛衰を繰り返しながら国が建国され、あるいは滅亡することもなく、日本は永久不滅の神国であると信じられてきたのです。

 日本に肇国はあっても、建国はないという、という「肇国の精神」は神代(かみよ)の物語によって闡明(せんめい)されたものですが、これを信じてきたのが日本人であったということを忘れてはならないのです。あるいは、これを信じる心を持った者こそが日本人なのです。

 戦後教育を通して、日本人は最も大切なものを失ってきました。それは、日本人の生命の源泉であり、魂の拠り所でした。それは、神が日本人に授けられた美しい神代の物語であり、そこに流れる国家の命脈としての「肇国の精神」でした。

 ここまでに書き記したことを、ほとんどの日本人は知ることも、教わることもなく、また、肇国という言葉を聞いたこともなく、日本という国がいかなる国であるかを考えることもせず、戦後80年の間、見せかけの平和にただ酔いしれて生きてきたのではないでしょうか。そればかりか、「肇国」などという言葉を持ち出せば、戦前の日本に回帰しようとしているのではないか、あるいは軍国主義を復活させようとしているのではないか、時代錯誤も甚(はなは)だしいという非難の声が聞こえてきそうです。

 しかし、ここに日本の病弊があるのです。戦後80年の闇があるのです。日本人にとって「肇国」という言葉ほど美しく、誇らしい言葉はないのです。日本が他の国のように建国された国ではなく、神の御心によって肇国された国であるということほど、日本人であることの喜びや幸せを感じさせてくれる言葉はないのです。この感性を失っていることが日本の死であると思います。祖国の起源を知らないことが、日本の将来に暗い影を落とし、世界の中で知らず知らずのうちに衰退しつつある国情の原因なのです。

 日本人は戦後80年を経た今でも、大東亜戦争の敗戦の後遺症から抜け出すことができず、日本人でありながらも、日本とはいかなる国なのかということさえ、分からなくなってしまったのです。グローバル化という荒波の中で価値観が混沌とさせられ、日本人であることの自信と誇りを失い、さらには周辺の反日諸国の脅威にさらされても何ら善処することができない。中国や韓国に対して謝罪とお詫びを繰り返す卑屈な政治家、財界人、官僚ばかりが跋扈(ばっこ)し、日本という国を傷つけ、貶(おとし)めることばかりに精力を注ぐ言論人や知識人がもてはやされています。一体この国はどこへ向かおうとしているのでしょうか。

 まるで羅針盤を失い漂流しているかのように見える現代の日本を救う道はどこにあるのでしょうか。それは「肇国の精神」を思い起こすことです。そして、これが日本を新生復活させることのできる唯一の道なのです。戦後80年の間に日本の姿がどんなに変わろうとも、神によって肇められた日本は、倒れることも、壊れることもありません。日本に終わりはなく、日本の末が訪れることはありません。日本が建国ではなく、肇国された国であるということが、私たち日本人に与えられた最大の恩恵であり、幸福への約束なのではないでしょうか。

 明治天皇は天神(あまつかみ)がお授けになった日本という国の尊さを思い、次のような御製を詠まれました。

「天(あま)つ神 定めたまひし 国なれば わがくにながら たふとかりけり」

 日本国の生命の源泉である「肇国の精神」が国民一人一人の心に蘇(よみがえ)る時、天つ神が定められた美しい日本は間違いなく新生復活することでしょう。近代歴史学の確立者であるレオポルト・フォン・ランケ(1795-1886)は「国民が誇りを失えば、その国は滅びる」と述べていますが、日本国民がこのまま誇りを取り戻すことができなければ、日本は滅びの道を歩むしかありません。国民が自信と誇りを取り戻し、国家滅亡の危機から日本国を救うためには、「肇国の精神」を蘇らせるしかないのです。「肇国の精神」が生き続けている限り、日本は決して倒れることも、壊されることもなく、日本民族は決して滅びることがないと信じています。

 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。 (ダニエル書 2章 44節)