2025年1月29日水曜日

第35回:日本を新生復活させるための提言(4)

  『日本書紀』によれば、天照大神は皇孫である瓊瓊杵尊(みみぎのみこと)を豊葦原(とよあしはら)の瑞穂国(みずほのくに)に降臨させた、いわゆる「天孫降臨」において、三つの神勅(しんちょく)を授けられました。その一つである「天壌無窮(てんじょうむきゅう)の神勅」については、すでに紹介させていただきましたので、今回は二つ目の神勅、「宝鏡奉斎(ほうきょうほうさい)の神勅」についてお話ししてみたいと思います。

 『日本書紀』には次のように記されています。

「吾(あ)が児(みこ)、此の宝鏡(たからかがみ)を視(み)まさむこと、当(まさ)に吾(あれ)を視るがごとくすべし。与(とも)に床(みゆか)を同くし殿(みあから)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)となすべし。」

【現代語訳】
 我が子よ、この宝鏡を見る時はちょうど私を見るようにすべきです。ともに床を同じくし、部屋を一つにして、つつしみ祭る鏡としなさい。

 この神勅は何を意味しているのでしょうか。これは「宝鏡」を天照大神の魂だと思い、大神に仕える気持ちで、大切にお祭りしなさいという意味です。つまり、常に敬天の心を持ち、神と共にある清明正直(せいめいせいちょく:清く、明るく、正しく、真っ直ぐに、という意味)で影のない誠の生活を送ることを教えられたものなのです。

 ところで、この宝鏡とは、天照大神が授けられた三種の神器の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)」のことです。「咫(た)」は古代の寸法の単位で、鏡の円周を指しています。「咫(あた)」は大人の女性の親指と中指を広げた時の長さで、およそ18㎝になります。「八咫(やた)」は約144㎝で、これが鏡の円周ですから、八咫鏡は直径46㎝くらいの鏡ということになります。

 さて、八咫鏡の由緒は天の石屋戸(あめのいわやと)の物語にまで遡(さかのぼ)ります。天照大神が天岩戸(あまのいわと)に隠れた岩戸隠れの際、八百万(やおよろず)の神は協議して、岩戸の前で祭を行うことにしました。その時、伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)が作った鏡が八咫鏡でした。天照大神が岩戸を少し開けた時に、その隙間に八咫鏡を差し入れると、その鏡には天照大神の御姿が完全に映し出されることになりました。つまり、八咫鏡は天照大神の御真影(ごしんえい)そのものの象徴であり、天照大神の御姿そのものとも言えるものなのです。

 そこで、天照大神は八咫鏡を天皇がお住まいになる部屋に置き、それを見るたびに天照大神のことを思い返しなさいと教えられたのです。歴代の天皇がいつも天の大御心を御自分の心と重ね合わせて生きてこられたのは、この神勅を何よりも大切なものとして心に刻んできたからです。そして、この神勅は天照大神の子孫である天皇に向けて語られたものであると共に、国民一人一人が常に心掛けるべき御教えとして尊ばれてきたものなのです。

 聖書にも「主を恐れることは知識のはじめである」(箴言1章7節)とあり、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(伝道の書12章1節)とありますが、個人を超えた存在としての神を畏れ敬うこと、天の前に恥ずることのない正しい心で生きることは、古今東西を問わず理想とされた人としての生き方でもあったのです。

 このような精神を失う時、人心は乱れ、国家は衰亡し、天運はその国家国民から離れていくようになります。宝鏡を見るたびに、歴代の天皇は私利私欲で民を苦しめていないか、天の大御心に心を寄り添わせ民のために誠を尽くして祈りを捧げているか、自問自答してこられたのです。そして、少しでも「我(が)」があれば、それを取り除くことを心がけてこられました。伊勢外宮の神官であった度会延佳(わたらいのぶよし:1615-1690)が著した『陽復記(ようふくき)』には「鏡(かがみ)」から「我(が)」を取り去れば、「かみ」となる、と記されているそうです。

 天照大神の御心に思いを馳せ、「我(が)」を取り除いて民のために生きることこそ、歴代の天皇が何よりも大切にしてこられた聖徳を積む生き方だったのです。その代表的な例として、昭和天皇が終戦直後に連合国軍最高司令官マッカーサー元帥と会見された時のことを私たち日本人は決して忘れてはならないと思います。

 それは、1945年9月27日のことでした。この日、昭和天皇は連合国軍最高司令官マッカーサー元帥との会見に臨まれたのです。執務室に通された昭和天皇は次のようなお言葉を述べられました。

 「私は戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対して、責任を負うべき唯一人の者です。あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました。日本国天皇は私です。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われた限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟があります。
 しかしながら罪なき八千万の国民が住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂(しんゆう)に堪(た)えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみに、ご高配(こうはい)を賜りますように。」

 昭和天皇のお言葉を聞いたマッカーサー元帥は、後に自身の『回顧録』の中で以下のような感想を述べています。

 「大きな感動が私を揺さぶった。死をも伴う責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動を覚えた。私はすぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った。」

 そして、マッカーサー元帥は、天皇のお言葉を聞いた後、感慨深げに、「天皇とはこのようものでありましたか。天皇とはこのようなものでありましたか」と、同じ言葉を二度繰り返し、そして、「私も日本人に生まれたかったです」という驚くべき言葉を口にしたのです。さらに、マッカーサー元帥は「かつて戦いに敗れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことだと思います。私は陛下に感謝申し上げたい」と語ったというのです。

 そして、最後に昭和天皇は、持参した菊の御紋の袱紗(ふくさ)包みを開けられ、次のようなお言葉を述べられました。

 「ここに皇室の全財産目録があります。私の命と皇室財産のすべてを差し出しますので、どうか、国民が飢えることがないよう、その衣食住をお守りくださいますよう、伏してお願い申し上げます。」

 昭和天皇からの懇願に対して、マッカーサー元帥は「陛下、私が任務に就いている以上、日本国民に餓死者を出すようなことはさせません」と、約束しました。会見の始めには昭和天皇に対して、「You(あなた、お前)」と呼んでいた無礼な態度は一変し、「Your Majesty(陛下)」と畏敬の心をもって語りかけられるようになったのです。

 昭和天皇は終戦直後の国難の中で、まさに私心を取り除き、我を取り去って、ひたすらに大御宝(おおみたから)である国民のために命をも惜しむことなく捧げようとされたのです。それは、「宝鏡奉斎の神勅」で教えられたことを、そのまま実践された生き方そのものでした。天照大神の大御心にのみ心を寄り添わせ、何よりも国民の幸福を願われた昭和天皇は、一切の「我」を取り除き、あたかも「神」と同じ心を宿されたお姿そのものとなられていたのです。

 マッカーサー元帥は、「我」をすべて取り除かれ、まるで「神」のようであられた昭和天皇のお姿に触れて、次のように告白せざるを得なかったのです。

 「私は初めて神のごとき帝王を見た。」

 日本全土が焦土と化した大東亜戦争の敗戦から、日本国と日本国民がかくも立ち上がることができ、戦後80年の平和を享受することができたのは、ひとえに昭和天皇の聖徳によるものであることを、私たち日本人はゆめゆめ忘れてはならないのです。この歴史の真実が忘却されず、私たちの心に生き続ける限り、日本国は神国(かみのくに)として永遠に栄えること、天壌無窮(てんじょうむきゅう)であると思います。

 彼が国の王位につくようになったら、レビびとである祭司の保管する書物から、この律法の写しを一つの書物に書きしるさせ、世に生きながらえる日の間、常にそれを自分のもとに置いて読み、こうしてその神、主を恐れることを学び、この律法のすべての言葉と、これらの定めとを守って行わなければならない。そうすれば彼の心が同胞を見くだして、高ぶることなく、また戒めを離れて、右にも左にも曲ることなく、その子孫と共にイスラエルにおいて、長くその位にとどまることができるであろう。 (申命記 17章 18-20節)