大航海時代は経済的利潤を追求する西欧列強による世界征服の始まりであり、アジア諸国に対しては植民地支配の端緒(たんしょ)となったことを、先回お話ししました。それでは、その後の西欧列強によるアジア侵略はどのように推移したのでしょうか。
ポルトガルとスペインを中心とする新航路開拓や新大陸発見は、やがて経済的利潤を追求する世界征服へと発展し、さらに奴隷貿易による利潤の拡大はその後もますます盛んになります。スペインは南米大陸を支配し、アステカ帝国とインカ帝国を滅亡させると、原住民を奴隷として本国に移送し、巨万の富を獲得しました。また、ポルトガルはアフリカ大陸西岸に進出していましたが、奴隷貿易が巨大な利益につながることに気づき、アフリカ大陸の黒人奴隷を買い漁(あさ)り、ヨーロッパに輸出して甚大な利益を生み出しました。
ところで、ポルトガルとスペインに遅れて世界征服に乗り出したイギリス、オランダ、フランスは領土獲得競争において互いに対立するようになります。そうした中で、アジア地域における植民地争奪戦において、その主導権を握ったのはイギリスでした。
米国の独立戦争(1775年~1783年)に敗北したイギリスは、北米で失った利益を取り戻すための新しい市場をアジアに求めるようになりました。その中心となったのがインドです。東インド会社を通じてアジアでの商業利権を拡張しようとしていたイギリスはフランスとの間でインド市場をめぐる争奪戦を繰り広げることになります。
1757年、イギリスはプラッシーの戦いでフランスに勝利し、アジアにおける海上権を掌握します。そして、三つの戦争(マイソール戦争、マラーター戦争、シク戦争)を経てインド支配を強化し、19世紀半ばまでにはインドのほぼ全域を制圧しました。
イギリスは自国の木綿製品を清国に輸出して利益を得ようとしますが、当時の清国政府は貿易を制限し、イギリスとの自由貿易を拒否します。そこで、イギリスは木綿製品をインドで売りさばき、その収益でインド産の麻薬(アヘン)を大量に購入します。そして、清国に対しては密貿易によりインド産のアヘンを売却し、手に入れた資金で清国のお茶、絹、陶磁器などをイギリス本国で売りさばいたのです。この「三角貿易」によりイギリスは莫大な富を蓄積することができるようになりました。
ところが、清国ではアヘン中毒者が急増します。1776年以前は毎年200箱(1箱約60㎏)程度のインド産アヘンが医薬品として清国に輸出されていましたが、1800年には2000箱、1830年には2万箱のアヘンが密貿易により流入するようになったのです。その結果として、国内には200万人を超えるアヘン吸飲者がつくり出され、軍隊内にもアヘン中毒者が激増し、清国の支配層は危機感を募らせていたのです。
そこで、清国政府はアヘンの厳禁を訴えていた湖北総督の林則徐(りんそくじょ)を広州に派遣し、1839年に貿易の停止と武力による商館包囲の強硬手段により、イギリス商人から約2万箱のアヘンを没収し、焼却処分としました。また、外国のアヘン商人はことごとく国外に追放され、イギリスとは一触即発(いっしょくそくはつ)の関係になってしまったのです。
1840年、清国政府のアヘン投棄に抗議したイギリスは開戦に踏み切り、ここにイギリスと清国との間にアヘン戦争が勃発します。結果はイギリス軍の圧勝となり、1842年に両国の間で「南京条約」が締結されました。この条約により清国は広州、上海など5つの港の開港、香港島の割譲、アヘン貿易の黙認など、イギリスからの屈辱的な諸要求を受け入れることになったのです。インド産のアヘンが公然と流入するようになったことで、アヘン中毒者は3000万人から4000万人にまで急増したと言われています。
ところで、イギリスが清国とアヘン戦争を起こした目的とはどのようなものだったのでしょうか。表向きは清国政府によるアヘンの没収と投棄に対する抗議となっていますが、イギリスの戦争目的はそれだけではなかったのです。そこにはイギリスの隠れたアジア戦略があり、アヘン戦争はアジア諸国を植民地支配するための第一歩でしかなかったのです。
では、イギリスの真の戦争目的とはどのようなものだったのでしょうか。一つは、植民地支配の根本的な動機ともなっている経済的利得のためです。貿易制限を撤廃させ、自由貿易により自国製品の輸出を拡大し、巨額の富を得るためでした。しかし、もう一つ、この戦争にはとても大切な目的が隠されていたのです。それは、清国を中心とするアジア地域の秩序を打破するということでした。つまり、清国を宗主国(そうしゅこく)とする朝貢体制(ちょうこうたいせい)そのものを打ち壊して、清国の支配圏からアジア諸国を切り離すことにあったのです。それは、イギリスが新たな宗主国としてアジア地域を支配するためでした。
イギリスはアヘン戦争を起こすことで経済的利益を拡大しただけでなく、清国中心の朝貢体制を打破してアジア諸国を植民地支配するための道を開こうとしたのです。つまり、西欧列強が行ってきたアジア征服の最終段階としてイギリスはアヘン戦争を利用し、アジアの大国であった清国を弱体化させ、アジア諸国を完全に植民地化しようとしたのです。そのための手段として麻薬(アヘン)を密貿易し、アヘン中毒者を急増させ、軍隊をも腐敗させるというのがイギリスの侵略計画であったことを私たちは決して忘れてはならず、歴史の教訓として覚えておかなければならないのです。
アヘン戦争の敗北は「眠れる獅子」と世界から畏怖(いふ)されていた清国がアジアの強国ではなかったことを世界中に知らせることになりました。そして、イギリスはアロー号事件をきっかけとして第二次アヘン戦争を起こし、1860年には「北京条約」を結ばせ、九龍半島の割譲やキリスト教布教の認可、アヘン貿易の認可などを清国政府に承認させることになります。ここから後、アジア諸国は次々と西欧列強により植民地化されていくことになるのです。
アヘン戦争は西欧列強によるアジア植民地支配の始まりとなりました。清国の弱さが露呈(ろてい)すると、イギリスに続いてフランス、ロシア、アメリカなども清国との間で不平等条約を結びます。そして、清国はその後半世紀以上にわたって半植民地状態となり、西欧列強の思いのままに蹂躙(じゅうりん)されることになるのです。
15~19世紀までのおよそ400年間で西欧列強による世界征服は着々と進められました。西欧列強によって植民地化され、あるいはその侵略政策により支配された地域は地球の陸地面積の90%以上に相当すると言われています。つまり、世界中の国と地域がほぼすべて西欧列強の支配下に置かれたのであり、これはまさに白人による世界支配そのものだったのです。
アジア地域においても西欧列強の植民地支配は止まるところを知りませんでした。西欧列強による圧倒的な侵略に対して、独立を守っていたのは日本とタイ、さらには清国の属国であった朝鮮半島だけでした。これが当時の世界の現実だったのです。このようなアジア侵略の歴史的な事実を無視して、近代日本の外交的・軍事的戦略を論評することほど愚かなことはありません。世界中が西欧列強による植民地支配の餌食(えじき)となっていたあの時代に日本が侵略を免(まぬが)れ、独立を保持することがいかに至難の業であったのか、私たちは虚心坦懐(きょしんたんかい)に当時の歴史の真実を見つめなければならないのです。
東條英機元首相が極東国際軍事裁判について、「この裁判の事件は1928年(昭和3年)以来の事柄に限って審理しているが、300年以上前、少なくともアヘン戦争にまでさかのぼって調査されたら、事件の原因結果がよく分かると思います」と語ることができたのは、まさにアヘン戦争以来のアジア諸国に対する侵略的植民地支配がどのようなものであったのか、その性質をよくよく知っていたからなのです。
西欧列強による世界征服とアジア侵略という歴史の真実から目を反らすことなく、大侵略時代の荒波が襲い来る中で、いかにして日本が独立を守り抜き、日本国民が生き抜いてきたのか、当時の政治家・軍人がいかなる信念と気概をもって、西欧列強の侵略主義に抗(あらが)い、国家の名誉と国民の生活を守ろうとしてきたのか、そのことに思いを致すことのできる私たちでなければならないのです。戦後80年を迎えて、大東亜戦争の真実に目覚めることなくして、日本の新生復活はあり得ないのです。
「一つの民族を征服し、これを無力化する最良の方法は、歴史を奪うことだ。歴史を失った民族は、もはや民族とはいえない。」
これは、日本の小説家・文芸評論家である林房雄(1903-1975)の言葉です。日本近代史とはどのようなものだったのか、それは一言で言えば、アジアを植民地支配しようとする欧米侵略主義に対する「防衛史」であり、侵略戦争に対する「抗戦史」だったのです。このような歴史の真実を奪うことでGHQは日本を征服し、無力化しようとしました。そして、戦後80年を経た今も奪われた歴史の真実を取り戻すことができていないのが現代日本の偽らざる姿なのではないでしょうか。