2025年11月9日日曜日

第74回:大東亜戦争の真実(24)

 日露戦争中に締結された一つの協定があります。それは、1905年7月29日に日本の桂太郎首相と米国特使のウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた「桂・タフト協定」と呼ばれるものです。タフト陸軍長官はフィリピン訪問の途中に来日し、桂首相との間でこの協定を結んだのですが、その目的はどのようなものだったのでしょうか。

 この協定が交わされた頃、すでに日本は日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を撃破しており、ロシア帝国政府はルーズベルト大統領の仲介による講和会議の開催を受け入れていました。そこで、同年7月8日にサンフランシスコを出発してフィリピンに向かったタフト外交団はホノルルを経由して、7月24日に横浜港に到着します。タフト外交団には明確な目的がありました。それは、米国のフィリピン支配に対して、日本政府がいかなる介入もしないと約束させることでした。

 実は、日本国内には同じアジア人としてフィリピンに対する同情論があり、1899年にはフィリピンに対して武器援助をしようとした過去があったのです。アジアへの進出を始めた米国にとってフィリピンはアジア戦略の重要拠点であり、フィリピンの植民地支配が脅(おびや)かされることを何よりも米国は恐れていました。そして、その脅威となったのが日露戦争にも勝利したアジアの強国日本の存在だったのです。

 そこで、米国は日本との間で極東アジアの平和について協議することを望んだのですが、この協定において合意されたのは以下の3カ条でした。

1.日本はフィリピンに対する野心を持たないことを表明(第一条)
2.極東アジアの平和は日本・米国・英国の3国により維持されることを確認(第二条)
3.米国は日本の大韓帝国における指導的地位を承認(第三条)

 この合意により、日本の韓国に対する優越権は米国によっても承認されることになり、米国との摩擦を回避したいロシアは日露講和条約において、韓国に対する日本の優越権を認めるようになります。また、同年8月12日には第二次日英同盟が締結されており、ここでは英国も日本の韓国に対する優越権を承諾しているのです。つまり、桂・タフト協定と共に、第二次日英同盟、さらには日露講和条約(ポーツマス条約)により、事実上、列強のすべての国が日本の韓国に対する優越権(支配的地位)を認める結果となったのです。そして、この年の末(11月17日)には第二次日韓協約(日韓保護条約)が締結されました。この協約では日本が韓国の外交を監視・指揮することが承認され、主に韓国の外交を管理するために韓国統監府(初代統監は伊藤博文)を置くことなどが決められました。ここにおいて韓国は事実上、日本の保護国となったのです。

 ところで、列強諸国はいかなる理由で韓国に対する日本の優越権を承認したのでしょうか。例えば、「桂・タフト協定」においてどのような約束が交わされたのか、この中で桂首相は朝鮮問題について次のような見解を述べています。

 「朝鮮半島は日露戦争の直接的な原因であり、戦争の論理的帰結として朝鮮半島問題を完全に解決することが、日本にとって絶対的に重要な問題である。もし、戦後、韓国を放っておけば、韓国は他国と不用意に協定や条約を結ぼうとする習性に戻り、戦前と同じような複雑な国際関係を再び引き起こすことは間違いない。以上のような状況を鑑み、日本は、韓国がかつての状態に逆戻りし、再び対外戦争に突入しなければならなくなる可能性を排除するために、何らかの明確な措置を講じる必要性があると強く感じている。」

 タフト陸軍長官は桂首相の見解が全く正当なものであると認め、「韓国は日本の同意なしに外国と条約を結ぶことはできない」という条件を韓国に対して要求することは当然の帰結と認識していたのです。さらに、タフト陸軍長官は日本が韓国に対する宗主(そうしゅ)権を確立し、韓国が外国との条約を締結するには日本の同意を要することが、「東洋における永久の平和に直接寄与するであろう」と述べていました。そして、韓国に対する日本の優越権の承認については、ルーズベルト大統領にも電報で伝えられ、合意が確認された上で文書にされました。

 さらに、桂首相は「極東における全般的な平和の維持が日本の国際政策の根本原則を形成している」とも語り、この目的を達成するための最良で、事実上唯一の手段は日本・米国・英国の三国政府が、互いに良好な関係を構築することであると提言しているのです。

 それでは、なぜ日本が韓国を事実上の保護国とすることが東洋の平和に寄与するのでしょうか。そこには韓国特有の習性がありました。韓国は第一次日韓協約締結後、その協約を守ろうとはせず、あまりにも身勝手な国際法違反を繰り返していたのです。そして、このような韓国の無思慮で自己本位な習癖(しゅうへき)を列強諸国も等しく認めていました。例えば、英国のジョーダン駐韓公使は「日清戦争後に独立した韓国の状況を見ていると、韓国の政治家に統治能力がないため、ここ10年の韓国は名目上の独立国に過ぎず、このまま独立国として維持されるのは困難である」との見解を示していました。そして、マクドナルド駐日公使も、韓国が日本に支配されることが韓国人自身のためにもなるという結論を本国に報告しており、バルフォア首相とランズタウン外相は二人の見解に同意し、韓国が日本の保護国になることを承認したのです。このまま韓国の身勝手な習性を放置しておけば、極東アジアの平和は維持されないというのが、当時の国際的な共通認識であったことを覚えておかなければなりません。

 では、第一次日韓協約締結では、どのようなことが約束されたのでしょうか。第一次日韓協約では、韓国政府は日本政府の推薦人を韓国政府の財政・外交顧問に任命しなければならないことが取り決められました。そこで、日本政府の推薦する日本人1名(目賀田種太郎[めがたたねたろう]大蔵省主税局長)が財政顧問に、外国人1名(ダーハム・スティーブンス米国駐日公使館顧問)が外交顧問に任命され、韓国政府はその意見に従わなければならなくなったのです。

 ところが、韓国皇帝の高宗はこれに従おうとせず、ロシア帝国に密使を派遣します。また、1905年3月26日には韓国皇帝からロシア皇帝ニコライ二世に送られた密書が発覚することになります。その後も高宗は、同年7月にもロシア帝国とフランスに対して、10月には米国と英国にも密使を派遣し、協約の規定をことごとく破り、なりふり構わずに密使外交を展開したのです。

 第一次日韓協約第三条には、韓国政府は外交案件について必ず日本政府と協議しなければならないと規定されていますが、韓国政府にはもはやその規定を遵守する意志のないことが明白となったのです。その結果、韓国の外交権を日本が完全に掌握することによってでしか、韓国を取り巻く国際情勢の安定はないという判断が列強諸国の共通認識となりました。そして、桂・タフト協定により、日露講和条約の第二条により、さらには第二次日英同盟の第三条により、日本の韓国に対する優越権が承認されたのです。1905年11月17日には第二次日韓協約が締結され、ここに日本政府は韓国の外交権を完全に掌握することとなったのです。協約の第二条には以下のように定められています。

 「日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うする任務に当たり、韓国政府は、今後日本国政府の仲介によらずして国際的性質を有する何らの条約もしくは約束をしないことを約する。」

 第二次日韓協約は、日韓保護条約とも言われ、韓国が日本の保護国となったことから、日本の韓国に対する植民地支配の始まりと受け止められていますが、歴史の真実はそのようなものではありません。日本が韓国を保護国としたことは、東洋の恒久的平和を維持するための礎となるべきものだったのです。

 日本は韓国を植民地支配したのではありません。その証拠に、当時、財政的に破綻状態にあった韓国に対して、日本は無利子、無期限で財政支援を行いました。韓国の歳入はおよそ750万円でしたが、必要な歳出は3400万円を超えていました。すると、日本政府はその不足分のおよそ2700万円を全額負担し、韓国に対する惜しみない財政支援を行ったのです。そして、その後も日本政府は韓国の国家歳入の大部分を負担し続けました。日本は欧米列強が植民地から多くのものを搾取したように、韓国から何かを収奪するようなことは一切しませんでした。

 さらに言えば、この時、日本は韓国を併合するつもりもありませんでした。それは、韓国を併合してしまえば、国家予算の多くを韓国の近代化のために注ぎ込まなければならなくなり、日本の国家財政が破綻してしまうとの強い反対論があったからです。どこまでも韓国の近代化と自立のために、そして、東洋の永久平和のために、日本は韓国を保護国としたのであり、植民地にしたのではありません。これこそが歴史の真実であることを私たち日本人は決して忘れてはならないのです。