2025年11月16日日曜日

第75回:大東亜戦争の真実(25)

  1905年11月17日に第二次日韓協約が締結され、韓国は事実上、日本の保護国となりましたが、韓国皇帝の高宗はこの協約が無効であることを明らかにするために、締結後すぐさま緊急電文を英国に送ります。その内容は「朕は銃剣の威嚇と強要のもとに韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし」というものでした。高宗は第二次日韓協約が不当に締結されたものであり、無効であることを国際社会に訴えたのですが、当時の国際社会は高宗の主張を支持することはありませんでした。

 それにもかかわらず、その後も高宗は国際社会に対して第二次日韓協約の不当性を訴えるため密使を派遣します。これが「ハーグ密使事件」と呼ばれるものです。それでは、高宗が日本による韓国支配を糾弾するための密使を派遣しようとした理由はどこにあったのでしょうか。それは、日清戦争後に日本に対して行われた「三国干渉」を教訓としていたからでした。下関条約により、日本は清国から遼東半島の領有を認められますが、この時、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に対して遼東半島の返還を求め、結果的に日本は遼東半島を返還することになりました。つまり、列強諸国による日本への外交圧力をもって、第二次日韓協約を撤回させ、日本に委譲した外交権を奪い返そうと画策したのです。

 1907年6月15日、オランダのハーグにおいて第2回万国平和会議が開催されますが、高宗はこの会議に密使を派遣します。高宗は国際会議の参加国に日本による韓国の保護国化がいかに不当なものであるか、その事情を説明し、日本を糾弾しようとしました。ところが、派遣された密使はどの国とも接触することができなかったのです。それは、万国平和会議が国際紛争平和的処理条約の批准国による会議であり、そもそも締結国ではない韓国には参加権がなかったからです。また、第二次日韓協約により韓国は外交権を失っていたことから、いずれの国からも接触を拒否されたのです。

 そこで、ハーグに赴いていた韓国密使は、各国の新聞を利用して韓国の主張を訴えるという手段に出ましたが、列強各国は韓国の主張に全く耳を貸さず、高宗の計画は何ら実質的な成果を挙げることもなく完全に失敗に終わったのです。むしろ、韓国の身勝手な秘密外交が国際的に露見することにより、韓国に対する国際社会の非難はより厳しいものとなっていきました。そして、韓国国内においても高宗の密使外交への非難が高まり、李完用(りかんよう)らの閣僚でさえ、高宗の独断専行は韓国にとって有害であると、高宗に退位を迫るようになったのです。

 もはや孤立無援の高宗には退位の道しか残されていませんでした。7月19日、高宗はハーグ密使事件の責任を取って退位し、その子である純宗(じゅんそう)が即位することになります。第二次日韓協約の頃までは日本の世論は韓国に対してきわめて同情的でした。そして、韓国に対する支配を強化することに関しても否定的な意見が大勢を占めていたのです。ところが、ハーグ密使事件の発覚を通して、政治能力のない韓国政治は韓国民衆にとっても不幸であるとの世論が日本国内でも高まることになったのです。そして、世界の平和と安寧のためには日本が韓国を併合することが、「世界に対する帝国の任務」であると併合を推進する論調が政府内部においても主流となってきたのです。

 こうした状況の中で、日本が韓国を併合することについて最も反対していたのが初代韓国統監であった伊藤博文でした。伊藤博文は在韓の日本人記者会の懇親会で、次のような演説をしています。

 「日本は韓国を併合する必要はない。併合はやっかいであり、韓国は自治を必要とする。とはいえ韓国は、日本の監督指導がなければ、健全なる自治は難しい。」

 伊藤博文は韓国の政治能力の限界を熟知しており、韓国の自主独立のためには日本の監督指導が不可欠であることも理解していました。しかし、韓国を併合することにあくまで反対したのは、日本の近代化が未だ道半ばであり、韓国を併合することは国家予算の多くを韓国統治に割り当てることになり、日本の財政状況がより危うくなることを危惧していたからでした。

 しかし、韓国をめぐる情勢は緊迫していました。このまま韓国を放置していれば、いつ第二、第三のハーグ密使事件が起きるかもわからず、極東アジアの平和にとって韓国の政治状況を安定させることは日本政府にとって最重要課題ともなっていたのです。そこで、1909年3月30日、小村寿太郎外相は韓国併合を断行する旨の意見書を桂太郎首相に提出します。桂首相はこの意見書に賛意を示し、最終的には韓国統監であった伊藤博文の意見を聞いて決定しようということになりました。4月10日、桂首相と小村外相は帰国していた伊藤博文を訪ね、韓国併合案について次のように説明します。

 「明治30年10月、李朝が国号を、大朝鮮国から大韓帝国に改めたのは、日清戦争の結果として、清国との宗属関係が解消し、自主独立の国家となったことを示すためです。その韓国皇帝が領土を日本国皇帝に譲与するのであって、天皇から権限を付与された朝鮮総督が統治することになり、合併とか合邦とかは適切ではありません。そこで略奪したような過激な表現は避け、併合としたいのですが、いかがなものでしょうか。」

 これに対して、「ほかに良策があるとも思えない。仕方ないだろう」と、伊藤博文はあっさりと同意します。そして、韓国皇帝を皇族待遇にして、王族や政府高官らに朝鮮貴族令を公布して爵位を与えることなども決定されたのです。こうして、7月6日に桂内閣は「適当の時期に韓国併合を断行する方針及び対韓施設大綱」を閣議決定し、日韓併合への道が整えられたのです。そこで日本政府は韓国併合を前提として、日露関係を調整するための会談をロシア側に求めました。そして、伊藤博文枢密院議長(1906年6月に伊藤は韓国統監を辞任し、枢密院議長に任ぜられていました)が、ロシアのウラジミール・ココツェフ蔵相との会談に臨むために満洲のハルビンへと向かったのです。

 ところが、1909年10月26日午前9時過ぎにその事件は起きました。伊藤博文はロシアの特別貴賓車でハルビン駅に到着します。そして、ココツェフ蔵相の願いでロシアの儀仗(ぎじょう)兵を閲兵している時に、韓国の民族主義者である安重根(あんじゅうこん)によって狙撃され、暗殺されたのです。この事件を契機としてロシアは韓国との関係を断絶することになります。実は、欧米列強の中でロシアだけは日本に対する警戒心を抱いており、韓国への支援を継続していたのです。しかし、ロシアはこの暗殺事件がロシア領内で発生したことから暗殺に関与していたのではとの疑念を持たれることを恐れ、韓国との関係をいち早く断絶し、日本との協調路線に転じるようになったのです。

 伊藤博文の暗殺事件の後、国際社会において韓国を支援する国は存在しなくなりました。また、日本国内においても国際協調派の元老であった伊藤博文の死により、韓国に対する強硬意見が政府内に広がっていくようになったのです。そして、1910年6月3日、「併合後の韓国に対する施政方針」が閣議決定され、8月6日には韓国首相である李完用に対して韓国併合の受諾が求められます。8月22日に李完用首相が条約締結の全権委員に任命されると、その日の内に韓国併合条約(韓国併合ニ関スル条約)が寺内正毅(てらうちまさたけ)統監と李完用首相の間で正式に調印されます。そして、8月29日に裁可公布され、日本は大韓帝国を併合しました。ここに大韓帝国は消滅し、大東亜戦争終結まで日本の統治下に置かれることになったのです。

 1910年8月29日、韓国併合に際して当時の皇帝純宗により発表された勅諭があります。この勅諭は「韓国併合ニ関スル条約」の締結に伴い、韓国国民に対して日本の新政に服従し、幸福を共に享受するように呼びかけた重要な文書であり、次のような内容になっています。その要旨は次の通りです。

 「朕は即位して今日に至るまで、あらゆる努力を尽くしてきたが、朝鮮の病は悪化する一方で、その疲弊は極限に至った。もはや挽回の望みはなく、打つ手もない。このままではますます状況は悪化し、事態を収拾することはできない。
 そこで、この大任を誰かに任せたほうがよいという結論に達した。朕はここに朝鮮の統治権を、従来信頼申し上げている大日本帝国皇帝陛下に譲渡し、外は東洋の平和を強固にし、内は全朝鮮人の民生を保全しようと決意した。
 国民は今の国の状況をよく考え、大日本国の優れた文明に服して、幸福を享受せよ。このことは、朕が国民を忘れたからではなく、むしろ国民を救いたいという思いから出たものである。国民は朕の意思を理解して行動せよ。」

 韓国併合条約が締結されると、明治天皇から臨時恩師金として3000万円が下賜(かし)され、大韓帝国が日本から借入していた2651万円はすべて帳消しにされました。その後も、税収入のほぼ2倍に相当する約2000万円を毎年、日本は負担することになり、朝鮮全土の近代化のために国家予算を惜しみなく投入したのです。また、併合後に設置された朝鮮総督府は、入念な土地調査を行い、鉄道、上下水道、電気、ダム、病院などの社会基盤の整備に取り組みました。

 さらに新たな戸籍制度も導入され、李氏朝鮮時代には人間扱いされていなかった奴婢(ぬひ)や白丁(はくてい)などの賤民(せんみん)にも姓が与えられ、戸籍に登録させることで、身分を解放しました。その結果、身分解放された賤民の子弟も学校に通うことができるようになり、平等な教育機会が与えられるようになったのです。日本統治下においては、朝鮮全土に日本の内地に準じた学校教育制度が整備され、多くの学校も開設されました。そして、1911年に公布された第一次教育令により、朝鮮語が必修科目とされ、ハングル文字の教育が行われるようになったのです。その結果、朝鮮人の識字率は1910年の6%から1944年には60%に上昇していたのです。

 日本政府は韓国を併合した1910年から1944年までの間に、未償還の公債や立替金などを合算すれば、総計20億円以上の巨額の資金を朝鮮のために投入しました。条約締結当時の日本の国家予算はおよそ5億5000万円ですから、どれほど朝鮮半島の近代化と発展のために血税を注ぎ込んだかが分かるはずです。欧米諸国が植民地から一方的に搾取するだけであったことに比べれば、日本の統治がいかに自国の犠牲の上に行われたものなのか、このような歴史の真実は決して見過ごされてはならないのです。