2025年5月11日日曜日

第51回:大東亜戦争の真実(8)

 「日本の行った侵略戦争すべてです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです」。

 これは、極東国際軍事裁判(東京裁判)において、日本の戦争犯罪を糾弾するために連合国側の裁判長の口から発せられた言葉です。つまり、東京裁判史観によれば、日本は侵略国家なのであり、その侵略は日清戦争から始まったことになっているのです。もし、私たちが日本は侵略国家であり、その侵略の始まりが日清戦争であったと信じ切っているのなら、私たちは確実に東京裁判史観によって洗脳されているのであり、戦後の歪められた歴史教育の呪縛から未だに解放されていないということになります。

 歴史の真実はそのようなものではありません。日清戦争は日本による侵略戦争ではなかったのです。私たちは日清戦争の真の目的について、はっきりと知らなければなりません。それは、侵略戦争などではなく、朝鮮を清国の支配から解放し、朝鮮を独立国家とするための戦争だったのです。

 そこで、日清戦争の真の目的に迫るために、当時の東アジアの情勢について概観しておきます。誕生したばかりの明治政府において、最初の脅威となっていたのは、アメリカでもイギリスでもありませんでした。日本国にとっての最大の脅威は極東に進出しつつあるロシア帝国だったのです。ロシアは不凍港を求めて南下政策を推し進め、沿海州のウラジオストクに海軍基地を建設します。そして、満州、朝鮮半島に狙いを定めて、侵略の魔の手を伸ばしてきたのです。

 明治の元勲(げんくん)である西郷隆盛は、「ロシアは満州だけでなく、いずれは朝鮮半島を経て日本に迫りくる」と警鐘を鳴らしていました。それは、かつて朝鮮半島を経て、二度にわたり襲来してきた「元寇」の悲劇を歴史の教訓として記憶していたからでした。もしも、朝鮮半島がロシアの南下政策の餌食となり、植民地支配されてしまえば、日本が国家存亡の危機に晒(さら)されることは必至でした。

 そこで、日本はロシアの南下を断固阻止するために、清国とだけでなく、朝鮮とも国交関係を結んで、東アジアの共同防衛体制を構築しようとしたのです。1868年(明治元年)、明治政府は李氏朝鮮に対して修好を求める外交官を派遣します。その目的は、日本と朝鮮が正常な国交関係を結び、同盟国となることで、ロシアの南下政策に対抗するというものでした。しかし、当時の朝鮮は日本からの申し出を拒否します。その後も明治政府は朝鮮に対して何度か使節を派遣しますが、朝鮮は日本の申し出をことごとく無視し、むしろ日本の振舞いを軽蔑すべきものとして、非難したのです。

 それは、当時の朝鮮が清国を中心とする東アジアの世界秩序である「冊封体制」(華夷秩序:かいちつじょ)に縛られており、清国の属国として鎖国体制を敷いていたからです。そして、中華思想の影響により、清国こそが世界の中心であり、それ以外の周辺諸民族はおしなべて劣位民族であると軽蔑していたのです。ここには欧米列強諸国も含まれていました。つまり、中華思想によれば、欧米列強のような近代国家でさえも、「化外(けがい)の地」であり、決して文明化された民族ではなかったのです。

 それにもかかわらず、日本が劣等国家である欧米列強の真似をして、朝鮮に対して開国を求めてきたのですから、その行為は恥ずべきことであり、軽蔑すべき蛮行でしかありませんでした。その証拠に大院君(たいいんくん:李氏朝鮮末期の執政者)は「日本人は何故蒸気船で来て、洋服を着ているのか。そのような行為は華夷秩序を乱す行為である」と非難していました。これこそが、中華思想を土台とした「冊封体制」がもたらした弊害なのです。朝鮮は中華思想の悪影響により当時の国際情勢を完全に見誤っていたのです。

 そのような中で一つの事件が起きます。1875年(明治8年)、明治政府は沿海測量を行うために朝鮮近海に小型砲艦を派遣しますが、この時に朝鮮側は江華島(こうかとう)砲台から日本の艦船に向けて発砲し、これをきっかけとして日本側は朝鮮軍に応戦することになったのです。その結果として、日本は江華島砲台を撃破し、さらに江華島付近の永宗島(えいそうとう)の要塞を一時占領してしまいます。これが、「江華島事件」と呼ばれるものです。

 この事件の事後交渉において日本からは黒田清隆全権大使が派遣され、日朝間の国交交渉は大きく進展することになります。そして、1876年、日朝修好条規(江華条約)が締結されることになり、朝鮮を開国させることができたのです。また、この条約の第一条には「朝鮮ハ自主ノ邦(くに)ニシテ日本国ト平等ノ権利ヲ有スル」との明文規定があり、これは朝鮮が清国の属国ではないことの宣言となりました。つまり、日本は朝鮮を清国の干渉を受けることのない自主独立の国(主権国家)にすることを目的として日朝修好条規を締結したのです。

 駐日英国公使であったハリー・パークスは、朝鮮の安全保障問題について、「朝鮮の安全は、外国全体との関係に入ることにかかっている。どれか一国との紛争の際に、朝鮮は多大な関心をもって見られ、それが朝鮮の最善の保護となるであろう」と述べていました。そして、日本と朝鮮が条約を締結したことは、欧米列強にとってもロシアの南下を阻止し、とりわけても朝鮮半島をロシアの植民地化から守るという意味において極めて重要な出来事だったのです。なぜなら、日朝修好条規の締結は、朝鮮を万国公法上の国家として承認することであり、ロシアの朝鮮半島への侵略を牽制する役割を果たすものとなったからです。

 ところが、清国は朝鮮が自国の属邦であることを断固主張し、中華思想に基づく冊封体制をどこまでも堅持し続けようとしました。清国にとっては国際法上の立場など何ら意味を持たないものであり、何よりも優越すべき世界秩序は清国を中心とした冊封体制そのものだったからです。当時、日本で発行されていた英国紙『ジャパン・ウィークリー・メール』には、とても興味深い次のような論説が掲載されています。

 「日本は、朝鮮の独立を認め、それを前提に清国と条約を結んだにもかかわらず、清朝は頭から無視して、逆に宗属(そうぞく)関係を強化するような動きに出る。それは清朝が、日本人が西洋の文物を取り入れ、東洋の伝統に背いたことに憤慨したというよりも以上に、自らの優越性という中華思想の絶対的信仰から、条約の遵守(じゅんしゅ)の義務を自覚していなかったからだ。」

 中華思想という価値意識に呪縛された清朝を覚醒させるためにはいかにすればよいのか、そして、清朝の頑なな冊封体制に対する執着心を打破するためにはどうしたらよいのか、さらに清朝の属国となり下がっている朝鮮を清朝の冊封体制から解放し、主権国家として独立させるためにどのようにしたらよいのか。その答えはもはや誰の目にも明らかでした。それは、朝鮮を清国に服従させている中華思想を土台とした冊封体制を崩壊させることです。そのことなしに朝鮮の完全なる独立を実現することはできなかったのです。

 そこで、日本政府は古くからアジアに存在する冊封体制を崩壊に導くために、清国との戦争に備えた軍事力の増強に取りかかるようになったのです。ここに、中華思想に基づく冊封体制という世界秩序を破壊するための日本の戦いがいよいよ幕を開けることになります。それは、神の摂理の中で求められた戦争への道であり、日本に与えられた大使命でもあったのです。