2025年12月21日日曜日

第79回:大東亜戦争の真実(28)

  日本統治時代に行われたとされる「七奪(しちだつ)」の一つとして、土地の収奪があります。例えば、韓国の歴史教科書には「土地調査事業によって不法に奪い取られた土地は全国土の40%にもなった」と書かれており、朝鮮総督府による土地調査事業の目的が全国的な土地の略奪にあったと教えられています。しかし、これは明らかな嘘です。日本政府と総督府は朝鮮人から土地を奪ったのではありません。むしろ、奴隷のように使われていた農民たちに土地を与えたというのが真実なのです。

 韓国併合後に総督府はすぐさま全国土地調査を行い、朝鮮半島全土の田畑の面積を入念に調べました。そして、実測の結果、全耕地面積は487万町歩(ちょうぶ)であることが判明したのです。ところが、総督府の土地調査が行われる以前は、納税台帳から全耕地面積は272万町歩とされていました。それは、脱税のために多くの土地が隠されていたからです。つまり、耕作地全体のおよそ45%が当時の支配階級である両班(やんばん:特権階級である貴族層のこと)らによって隠匿(いんとく)耕地とされていたのです。

2025年12月14日日曜日

第78回:大東亜戦争の真実(27)

  韓国併合条約の締結による日本統治時代において、日本は韓国から七つのものを奪った(七奪)とされていますが、ここで「奪った」という表現は歴史的事実に照らせば、全くの誤りです。例えば、国家としての威信と独立の基礎となるもの、つまり、「国王」が奪われ、「主権」が奪われたと言いますが、これは真実とはかなり食い違っています。なぜなら、「国王」は奪われたのではなく、韓国併合条約に基づいて退位したのであり、その結果として王朝に終止符が打たれたのです。また、退位した李王家は、その後に華族・准皇族に列せられ、王家自体は存続しています。さらに、「主権」も奪われたのではありません。韓国併合条約に従って日本に移譲されたのであり、条約の締結は朝鮮政府が望んだことでもありました。そして、日本による韓国併合は国際的にも歓迎されており、日本が主権を強圧的に奪ったというのは事実ではありません。日韓両国の間で正式に合意し、調印され発効した条約を履行して、日本は韓国を併合したのですから、日本が韓国から「国王」を奪い、「主権」を奪ったという歴史的評価は全くの的外れなのです。

2025年11月30日日曜日

第77回:大東亜戦争の真実(26)

 1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」(韓国併合条約)の締結により、大韓帝国は大日本帝国に併合され、朝鮮総督府の統治下に置かれることになりました。そして、日本による韓国併合は、同盟国の英国をはじめ、米国、フランス、ドイツ、ロシア、そして、清国などの世界の主要国から承認されていたのです。当時の国際情勢においては、欧米列強諸国から承認されることには非常に重い意味がありました。少なくとも、日本が韓国を併合したことは国際的には認可されていたのであり、そこには国際法を逸脱した侵略的要因は皆無だったのです。

 それでは、日本統治時代に朝鮮総督府が実施した統治政策とはどのようなものだったのでしょうか。多くの日本人は何ら疑うこともなく日本は悲惨な植民地支配をしてきたのだと教え込まされてきました。日本は韓国から「七つのものを奪った」(七奪・しちだつ:①主権②国王③人命④国語⑤姓氏⑥土地⑦資源)という捏造された歴史を信じ込んでいる人も少なくないのです。しかし、歴史の真実はその真逆でした。日本は韓国から何かを奪ったのではなく、むしろ多くのものを韓国に与えていたのです。

2025年11月23日日曜日

第76回:「令和の米騒動」と天からのしるし

 2025年は日本人にとっての主食である「米」にまつわる問題で日本中が揺り動かされました。米価の高騰や米不足、さらには政府による備蓄米の放出など、さながら「令和の米騒動」と呼ばれるほどの様相が日本各地で散見されました。しかし、このたびの「米騒動」は単なる米価の高騰や米不足、あるいは米の買い占めといった事象にのみ目を向けるべき出来事だったのでしょうか。「令和の米騒動」は、日本人が決して忘れてはならないことを思い起こさせようとする「天からのしるし」だったのではないでしょうか。

 日本人にとって主食である米は特別な意味を持っています。そして、日本が稲穂が豊かに実る「瑞穂(みずほ)の国」と呼ばれていることには、明確な根拠があるのです。それが、先人たちにより受け継がれてきた日本神話です。「令和の米騒動」を通して、私たち日本人は今こそ、心静かに「神代(かみよ)」の歴史を思い起こし、稲作がどのようにして始まったのか、その原点に立ち返らなければならないのです。

2025年11月16日日曜日

第75回:大東亜戦争の真実(25)

  1905年11月17日に第二次日韓協約が締結され、韓国は事実上、日本の保護国となりましたが、韓国皇帝の高宗はこの協約が無効であることを明らかにするために、締結後すぐさま緊急電文を英国に送ります。その内容は「朕は銃剣の威嚇と強要のもとに韓日両国間で締結した、いわゆる保護条約が無効であることを宣言する。朕はこれに同意したこともなければ、今後も決して同意しないであろう。この旨を米国政府に伝達されたし」というものでした。高宗は第二次日韓協約が不当に締結されたものであり、無効であることを国際社会に訴えたのですが、当時の国際社会は高宗の主張を支持することはありませんでした。

 それにもかかわらず、その後も高宗は国際社会に対して第二次日韓協約の不当性を訴えるため密使を派遣します。これが「ハーグ密使事件」と呼ばれるものです。それでは、高宗が日本による韓国支配を糾弾するための密使を派遣しようとした理由はどこにあったのでしょうか。それは、日清戦争後に日本に対して行われた「三国干渉」を教訓としていたからでした。下関条約により、日本は清国から遼東半島の領有を認められますが、この時、ロシア・ドイツ・フランスの三国が日本に対して遼東半島の返還を求め、結果的に日本は遼東半島を返還することになりました。つまり、列強諸国による日本への外交圧力をもって、第二次日韓協約を撤回させ、日本に委譲した外交権を奪い返そうと画策したのです。

2025年11月9日日曜日

第74回:大東亜戦争の真実(24)

 日露戦争中に締結された一つの協定があります。それは、1905年7月29日に日本の桂太郎首相と米国特使のウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた「桂・タフト協定」と呼ばれるものです。タフト陸軍長官はフィリピン訪問の途中に来日し、桂首相との間でこの協定を結んだのですが、その目的はどのようなものだったのでしょうか。

 この協定が交わされた頃、すでに日本は日本海海戦においてロシアのバルチック艦隊を撃破しており、ロシア帝国政府はルーズベルト大統領の仲介による講和会議の開催を受け入れていました。そこで、同年7月8日にサンフランシスコを出発してフィリピンに向かったタフト外交団はホノルルを経由して、7月24日に横浜港に到着します。タフト外交団には明確な目的がありました。それは、米国のフィリピン支配に対して、日本政府がいかなる介入もしないと約束させることでした。

2025年11月2日日曜日

第73回:大東亜戦争の真実(23)

 極東国際軍事裁判(東京裁判)において、裁判長に次のような質問をした証人がいました。その証人とは石原莞爾(いしわらかんじ)陸軍中将です。石原は「米国は日本の戦争責任を随分と古くまで遡(さかのぼ)ろうとしているようだが、一体いつまで遡るつもりなのか」と問いただします。そこで、裁判長は次のように返答しました。

 「日本の行った侵略戦争すべてです。できることなら、日清戦争、日露戦争まで遡りたいところです。」

 実は、ほとんどの日本人が日本はかつて侵略戦争をしたと信じ込まされています。そして、多くの日本人がアジアに対する侵略戦争の始まりが日清戦争からであったと思い込まされており、また、日露戦争の勝利によって日本は満洲への侵略を始めるようになったと教え込まれてきたのです。しかし、真実は全く違います。日本が侵略国家であるという歴史観は、極東国際軍事裁判によって作り出された虚構でしかありません。そして、日本を侵略国家として断罪しようとした連合国側の歴史観をそのまま私たちが受け継いでいるとするならば、これほど惨めで不幸なことはないのです。