2024年10月6日日曜日

第14回:「愛国主義」と「媚中主義」

  日本では自民党総裁選挙において石破茂新総裁が選出され、10月1日の国会で第102代首相の指名を受け、石破内閣が正式に発足しました。新総裁選出と新首相指名の背景にはどのようなものがあったのでしょうか。それは、一言で言えば、「愛国主義」と「媚中(びちゅう)主義」の戦いでした。ただ、ここでいう「愛国主義」は厳密な意味での愛国ではありません。しかし、確実に言えることは、今回の総裁選挙の最大の争点は「靖国神社参拝」に関わることだったということです。

 トランプ前大統領は、「Make America Great Again(米国を再び偉大にする)」というスローガンを掲げて、大統領選挙を戦っていますが、それは建国精神に立ち返るための戦いであり、神と自由を取り戻すための戦いでもあります。そして、米国が建国精神に立ち返り、失われつつある神と自由を取り戻すことにより、米国が再び偉大な国になることができることをトランプ前大統領は誰よりも確信しているのです。

 では、我が国日本が真の独立国として、また、世界の範となり得るような偉大な国となるためには、どのようにすればよいのでしょうか。私はその究極の道が靖国神社を参拝することにあると確信しています。今回の総裁選挙で何よりも問われたのはそのことではなかったのでしょうか。

 総裁選挙において最後の決戦投票に残ったのは、高市早苗候補と石破茂候補でした。この二人の戦いは、まさに国家の在り方を決定する戦いであり、自民党現職議員一人一人の国家観と歴史観を根本的に問うものでした。それは、日本を愛するのか、それとも中国に媚(こ)びへつらうのか、そのどちらを選択するのかという問いかけでもあったのです。そして、「愛国主義」と「媚中主義」が真っ向から対決し合う主戦場が靖国神社参拝問題だったのです。

 世界が混沌とする今、そして、世界各地で戦争と紛争が繰り広げられているこの時、日本は国家としてどこに向かおうとしているのか、どのような理想を掲げて混迷する今の時代を乗り越えようとしているのか、まさに、今という時は日本という国家の運命を決定する重大な時局にあると、私は思います。

 では、そのような現代の時勢の中で、日本の歩むべき道はどこにあるのか、混迷する日本の未来を明るく照らす希望の光をどこに見い出すことができるのか、その突破口は何なのでしょうか。それは、端的に言えば、日本国民だけではなく、とりわけても日本の為政者が「愛国心」を取り戻すことです。そして、愛国心を取り戻すための第一歩は、靖国神社を参拝することから始まるのではないでしょうか。

 何故、靖国神社を参拝することが、愛国心を取り戻す第一歩となり、混迷した時代を切り開き、日本の未来を照らす希望の光となるのか、その理由は何でしょうか。私は国家が国家として存続するための絶対的な条件は、国家のために殉じた人々を尊び、愛し敬う心を国民が抱き続けることにあり、殊に為政者たちが国を守るために尊い生命を捧げられた人々の魂を畏敬することだと信じています。国を愛し、愛する国を守るために生命を捧げられた人々を愛し敬うことができないとすれば、それは実に悲しいことではないでしょうか。

 あえて直言させて下さい。日本国に生きている私たちがこの国のために生命を捧げられた人々への感謝と尊崇の心を持つことこそ、自分が日本国民であることの唯一の証詞なのだと思います。私が日本人であることは戸籍や何かの証明書によって決定されるのではありません。私が日本人であるか否かを決定するのは、日本という国を愛しているか否かによるのです。国を愛し、国のために生命を捧げられた人々を敬う心が、真の日本人であることを証明する確かな証拠なのです。ですから、そのような心を持つことができないならば、私たちはそのような人を日本国民と呼ぶことはできないのではないでしょうか。そのような心を何よりも大切に思い、国政を担うことができないならば、そのような為政者を日本国民と言うことができるでしょうか。

 真の日本人はどんなことがあろうとも、愛国者であるはずです。日本よりも中国のことを大切にし、日本を守るために生命を捧げられた人々よりも、中国人の感情に気を配る為政者が、本当に日本の為政者と言えるのでしょうか。「媚中主義」とは何かと言えば、「中国第一主義」ということです。日本よりも中国が大切なのであり、中国の国益が日本の国益に優先するということです。そして、このような「媚中主義」は必ず、「反日主義」となり、やがては日本という祖国を売り飛ばす「売国主義」へと堕(だ)してしまうのです。

 『ランボー/怒りの脱出』という米国映画があります。この映画の主人公ランボーはベトナム戦争の英雄なのですが、帰還後に厳しい迫害と非難にさらされ、戦地で失った戦友のことを思っては心を悩ませます。しかし、彼が一番傷ついたことは、祖国が自分たちを愛してくれなかったことでした。この映画では、その主人公がベトナムに捕虜として囚われている米兵の証拠写真を撮影するという任務に就くのですが、ここでもCIA所属の高級官僚の様々な思惑により、米兵救出の一歩手前で裏切られてしまいます。最終的には米兵の捕虜を救出することに成功しますが、主人公は作戦責任者の裏切りに対して激しい怒りをあらわにします。

 そして、最後の場面で元上官の陸軍大佐が彼に声を掛けます。「米国を憎んでいるのか?」と。その問いに彼は間髪を入れずにこう答えました。「憎む?すべてを捧げます」。それを聞いた大佐は「それでは何が望みなのか」と尋ねました。その時、ランボーは救出された米兵たちの方を指さして、次のように語るのです。
 「私が望んでいることは、彼らも望んでいたことです。それは、我々が国を愛したように、国も我々を愛してほしい。ただそれだけです」。

 この言葉を残して、ランボーはその場を去っていくのですが、私は、この言葉の中にこそ、国がいかにあるべきなのか、という大切なメッセージが込められているように思います。靖国神社に祀られている御霊が私たちに望んでいることも同じなのではないでしょうか。国家の名において戦地に赴き、愛する祖国のために一つしかない生命を捧げられた人々に、国家はいかに向き合うべきなのでしょう。「我々が国を愛したように、国も我々を愛してほしい」。この切なる声が今の為政者の心には届いているのでしょうか。耳を塞ぎ、心を閉ざしたまま、彼らの目には日本のために生命を捧げられた人々の人生は見えていないのであり、彼らはただ中国のご機嫌を伺い、中国の諫言(かんげん)に耳を傾け、中国の顔色ばかりを見ているのです。

 だから、自民党議員は靖国神社には絶対に参拝しない人を新総裁に選び、中国に媚びへつらうような人を新首相に指名したのです。しかし、野党も同罪です。なぜなら、靖国神社参拝問題を国会で取り上げ、政府・与党を追及する人は誰一人としていないからです。マスメディアの罪はさらに重いでしょう。「政治と金」の問題ばかりを取り上げて、日本の国益が何であるのか、全く論じようとはしません。日本人が「媚中主義」に染められる時、日本は中国の属国になるでしょう。日本のことよりも中国のことを大切にするという愚かな「媚中主義」がはびこることこそ、本当の「国難」なのです。そして、日本国民が媚中主義に染められることこそ、本当の「洗脳」なのです。この洗脳から救われる道は、すべての日本国民が靖国神社に参拝し、愛国心を取り戻すことです。これ以外に未曽有(みぞう)の国難を克服する道はないと、私は確信しています。

 われらを苦しめる者が楽しみにしようと、
 「われらにシオンの歌を一つうたえ」と言った。
 われらは外国にあって、
 どうして主の歌をうたえようか。
 エルサレムよ、もしわたしがあなたを忘れるならば、
 わが右の手を衰えさせてください。
 もしわたしがあなたを思い出さないならば、
 もしわたしがエルサレムを
 わが最高の喜びとしないならば、
 わが舌をあごにつかせてください。 (詩篇 137篇 3-6節)