2024年10月9日水曜日

第15回:靖国神社に合祀されたABC級戦犯の慰霊ミサ

 大東亜戦争終結後に、連合国により「戦犯」として裁かれ、いわゆるABC級戦犯として処刑された帝国軍人の慰霊ミサが、カトリック教会の総本山であるバチカンで執り行われていたことをご存知でしょうか。実は、1980年5月21日、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世により靖国神社に祀られているABC級戦犯の方々の鎮魂と慰霊のための荘厳なミサが、サン・ピエトロ寺院で行われていたのです。

 そこで、まず初めに靖国神社の由緒と創建の理念について紹介させていただきたいと思います。以下の内容は、靖国神社の「参拝のしおり」に記されているものです。

 靖國神社の起源は、明治2年(1869年)6月29日に建てられた「招魂社(しょうこんしゃ)」に遡(さかのぼ)ります。当時の日本は、近代国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にあり、そうした大変革は一方において国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰の役)を生み、近代国家建設のために尽力した多くの同志の尊い命が失われる結果となりました。
 そこで明治天皇は、国家のために一命を捧げられたこれらの人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えようと、東京九段のこの地に招魂社を創建されたのです。招魂社はその後、明治12年(1879年)6月4日に「靖國神社」と改称されて、現在に至っています。
 靖國神社創建の目的は、明治7年(1874年)1月27日、明治天皇が初めて招魂社に行幸の折、お詠みになられた「我國の為をつくせる人々の名もむさし野にとむる玉かき」の御製からも知られるように、世の平安を願い国家のために一命を捧げられた人々の霊を慰め、その事績を後世に伝えることにあります。
 明治天皇が命名された「靖國」という社号は、「国を靖(安)んずる」という意味で、靖國神社には「祖国を平安にする」、「平和な国家を建設する」という願いが込められています。

 以上の説明からも分かるように、靖国神社は明治維新の激動の中で国家のために命を捧げて戦い、殉難した人々の御霊を慰めるために創建されたのであり、神社には幕末の嘉永6年(1853年)以降、明治維新、戊辰(ぼしん)の役、西南の役、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、大東亜戦争に至るまで、国家のために戦って亡くなられた戦没者246万6千人余りの方々が祀られているのです。

 その中には軍人ばかりではなく、明治維新の先駆けとなった幕末の志士たちをはじめ、戦場で救護のために活躍した従軍看護婦や女学生、勤労動員中に軍需工場で亡くなられた学徒などの軍属、文官、民間の方々も数多く含まれています。また、その当時、日本人として戦い亡くなられた台湾及び朝鮮半島出身者やシベリア抑留中に死亡した軍人・軍属、大東亜戦争終結時にいわゆる戦争犯罪人として処刑された方々も同様に祀られています。このように多種多様な方々の神霊が、祖国に殉じられた尊い神霊として一律平等に祀られているのは、靖國神社創建の目的が、「国家のために一命を捧げられたこれらの人々の霊を慰め、その事績を後世に伝える」ことにあるからなのです。

 そして、我が国の長い歴史において、「靖國神社に祀られることは大変な名誉」とされてきたのです。これが靖国神社に対する日本人の純粋な思いであり、また、靖国神社に祀られている数多(あまた)の御霊に対する素直な感情なのです。これが日本人の心であり、これが日本人の真の姿なのではないでしょうか。

 そのような中で、ABC級戦犯として処刑された「昭和の殉難者」と言われる方々の慰霊を心から願った一人の日本人がいました。その日本人とは、真言宗醍醐寺派別格本山品川寺(ほんせんじ)の仲田順和(なかだじゅんな)師です。順和師は昭和50年(1975年)にバチカンを訪問した際、かねてより心を痛めていた「戦犯とされた人々」の慰霊のためのミサを執り行ってほしいと、時のローマ法王・パウロ6世に宗教の違いを超えて願い出たのです。この時、パウロ6世は慰霊ミサを行うことを快く快諾されました。

 ところが、順和師が喜んで帰国した後、パウロ6世の訃報が届けられます。その後を継いだヨハネ・パウロ1世も急逝され、順和師の願いが実現することはもはや困難に思われました。異教徒の願いはかなえられないのかと思い、諦めかけていた時、ヨハネ・パウロ1世逝去の後、法王となったヨハネ・パウロ2世から親書が届けられたのです。それは、順和師がバチカンを訪問してから5年後となる昭和55年4月のことでした。そして、その親書には「5年前の約束を果たしたい」と書かれていたのです。ローマ法王庁は異教徒である順和師の願いを決して忘れてはいなかったのです。

 パウロ6世の真心に応えようと、順和師は帰国直後から五重塔の作製に取り掛かっていました。「戦犯」慰霊に共鳴された木工芸家の星野皓穂(ほしのこうほ)氏が3年の歳月を費やして、醍醐寺五重塔を精巧に模した塔を、無料奉仕で完成させたのです。順和師はABC級戦犯として処刑された「昭和の殉難者」1068柱の位牌を五重塔に納め、昭和55年(1980年)5月、バチカンに奉納したのです。そして、同年5月21日、仲田順和師と星野皓穂氏も参列し、法王ヨハネ・パウロ2世により、「昭和の殉難者」のための荘厳なミサがバチカンのサン・ピエトロ寺院で執り行われたのです。

 ヨハネ・パウロ2世は日本からの訪問者たちに次のように語られました。

 日本から来た仏教徒の訪問者たちを、特別なやり方で、あたたかく歓迎します。あなたがたに平和の祝福を希望します。われわれ自身についての真実の受容と、われわれの生存の目的がその内部に存する平和を。すべての人間の尊厳に対する尊重が存する他人との平和を。神がその恩恵をあなたがたにお示しにならんことを、祈ります。

 ヨハネ・パウロ2世は、宗教や国に関係なく、死者に対する敬意とその御魂の慰霊のために祈りを捧げられました。それは、このような純粋な祈りこそが、宗教者に与えられた天命であり、神を信仰することの喜びであることを知っておられたからです。真言宗の僧侶であった仲田順和師が「昭和の殉難者」の御霊の鎮魂と慰霊を、宗教を超えた立場でローマ法王に懇願されたという事実、先々代のローマ法王が約束されたことを決して忘れず、5年後に慰霊のための荘厳なミサを執り行われたという事実、ここにこそ神が願われる永遠平和の礎があるように思います。

 国家のために戦い、国家を守るために一命を捧げられた人々に対する敬意を忘れることなく、国家のために散華された人々の御霊を慰霊することは、私たちの権利であり、また義務なのではないでしょうか。そして、この権利と義務は、神から与えられたものであり、神の願いそのものでもあるのです。

 そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました」。
(使徒行伝 10章 34-35節)