2025年8月15日金曜日

第63回:久延彦談話:大東亜戦争終戦80年に寄せて

  大東亜戦争終戦80年という節目の時を迎えて、すべての日本人に問いたいこと、そして、伝えたいことがあります。

 命をかけて日本を守ってくれた人たちがいたことを、あなたは知っていますか。私たちが平和に暮らせることを願って命を捧げられた人たちがいたことを、あなたは知っていますか。

 私たち日本人は戦後、歪(ゆが)められた歴史教育によって変容させられてしまいました。そして、国家のために殉じた人たちを敬い、尊い命を捧げられた人たちに感謝するという、極めて当たり前の人としての心を失ってしまったのです。

2025年8月3日日曜日

第62回:大東亜戦争の真実(15)

 第二回総攻撃の失敗により、旭川の第七師団の第三軍への増援が裁可され、来るべき第三回総攻撃に備えることになりましたが、第三軍の幕僚は誰もが第七師団の増援は軍の恥であると口にし、「今度の総攻撃は生還を期せず」との決意を固めていました。そうした中で、中村覚(さとる)少将(第二旅団長)が提案した大規模な奇襲部隊(特別予備隊)の編成が採択されることになります。これが後に「白襷隊(しろたすきたい)」として知られる特別予備隊で、それぞれの連隊から選抜された3106名からなる決死部隊でした。

 最後になるとも覚悟された第三回の総攻撃において、特別予備隊の隊員は夜陰(やいん)でも敵味方が識別できるように目印として白襷をかけて出撃します。攻撃に先立ち、乃木軍司令官は次のような異例の訓示を語られましたが、その時、乃木大将の眼には涙が満ちていました。

2025年7月20日日曜日

第61回:大東亜戦争の真実(14)

 2月24日の第一次閉塞作戦を皮切りに、その後、第三次まで敢行された「旅順口閉塞作戦」は、結局のところ失敗に終わりました。そこで、連合艦隊は旅順港周辺に艦隊を遊弋(ゆうよく:艦船を海上で待機させること)させ、かつ機雷を敷設(ふせつ)してロシア旅順艦隊を封じ込めることにより、とりあえずは黄海の制海権を確保することはできました。しかし、極東に派遣されたバルチック艦隊の到着までに、いかにして封じ込めた艦隊を撃破することができるのか、ここに日本の命運がかかっていたのです。

 旅順艦隊の早期撃滅がいよいよ手詰まりとなったため、もはや残された道は陸軍による旅順要塞攻略しかありませんでした。そこで、日本陸軍は対露戦略上、等閑視(とうかんし)していた旅順攻略作戦に本格的に着手することになり、旅順攻略のために新たに第三軍を編成し、軍司令官に乃木希典(まれすけ)中将(旅順攻略のために支那大陸に上陸した際に、大将に昇進)を任命したのです。

2025年7月6日日曜日

第60回:大東亜戦争の真実(13)

 1904年2月8日、帝国陸軍の先遣部隊は海軍の護衛を受けつつ、朝鮮の仁川(じんせん)に上陸しますが、この時に海軍の水雷艇とロシアの砲艦「コレーツ」との間で最初の直接戦闘が起きました。そして、翌9日の仁川沖海戦において連合艦隊はロシア旅順艦隊の巡洋艦二隻を撃破し、自沈させました。また、8日夜には旅順港に停泊するロシア東洋艦隊(旅順艦隊)への奇襲攻撃が開始され、ここに日露戦争の幕が切って落とされることになったのです。

 日露戦争における日本軍の基本戦略は次のようなものでした。日本陸軍は主作戦を満洲に置き、最終的には満洲の奉天(ほうてん)辺りで大会戦を行い、ロシア野戦軍を撃破するという戦略を立てており、一方、日本海軍はウラジオストクと旅順のロシア東洋艦隊を撃破して、黄海と日本海の制海権を掌握し、その上でバルチック艦隊との大海戦に臨むという戦略でした。

2025年6月29日日曜日

第59回:大東亜戦争の真実(12)

 1904年2月10日、日本政府は「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」を交付し、日本はロシア帝国に対して正式に宣戦を布告しました。常備兵力において15倍、国家の歳入では8倍になる軍事強国ロシアに対して、日本政府は国運を賭けた一大決戦に臨むことになるのですが、当時の日本政府ならびに軍部はどのような国家戦略をもってロシアとの開戦という国家の一大事業に取り組んだのでしょうか。

 日本政府には明確な国家的戦略がありました。決して無謀で無計画な戦争をしたのではないのです。「敵を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず」とは、兵法の教えですが、日本政府や陸海軍の首脳は日本の国力を熟知していましたし、ロシアとの国力差も十分に理解していました。そのような状況の中で、いかにすれば日本が大国ロシアに勝利することができるのか、そのための緻密(ちみつ)な戦略を描いていたのです。

2025年6月22日日曜日

第58回:「沖縄慰霊の日」に心を寄り添わせるとは

 昭和20年(1945年)6月23日、この日は沖縄戦で第32軍を指揮した牛島満(うしじまみつる)大将が自決し、日本軍による組織的戦闘が終了した日とされています。この日を忘れないため、そして多くの戦没者を悼(いた)むため、6月23日は「沖縄慰霊の日」と定められました。慰霊の日は広島、長崎の「原爆の日」(8月6日、8月9日)や「終戦の日」(8月15日)と共に、上皇陛下が日本人としてどうしても記憶しておかなければならない「4つの日」として、慰霊を尽くされてきた特別な日なのです。

 最後の激戦地となった沖縄県糸満市(いとまんし)摩文仁(まぶに)の平和祈念公園では「沖縄全戦没者追悼式」が営まれますが、天皇、皇后両陛下をはじめ皇室の方々も、この日には黙祷され、亡くなった方々への哀悼の誠を捧げられます。

2025年6月15日日曜日

第57回:大東亜戦争の真実(11)

 1904年2月6日、日本政府はロシア帝国との国交断絶を通告し、2月8日に帝国海軍は旅順港外においてロシア艦隊への先制攻撃を開始します。そして、2月10日、日本政府は「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅(しょうちょく)」を公布し、ここに日露両国は本格的な交戦状態に入ることになったのです。「露国ニ対スル宣戦ノ詔勅」には、日露開戦に踏み切らざるを得なくなった理由が明確に述べられており、そこには明治天皇の開戦についての悲痛なご心情までもが表白されているのです。詔勅の全文の現代語訳は次のようなものです。